思考は苦しみだ


思考とは「私と言う概念」から生じていると教えられている

従ってその思考なるものは「私と言う概念」であるものである

思考と「私と言う概念」は同じものであるのだ

私と言う概念は二人称がなければ成立せず、この「私と言う概念」自体が自他の分離を前提にしている

自他の分離とは葛藤であり、悲しみであり、敵であり、苦しみであり、恐怖であり、エゴイズムである

思考とは愛ではないもの、愛を含まないものである、愛を詐称しているものである

何故なら愛の中には第一人称も第二人称も第三人称も存在していないからである

愛の中には私も無く、対象のあなたもなく、知覚する主体と客体の分離がないと言われている

従って愛を否定することが思考マインドであり第一想念の私である。

思考の中には自己が有り他己があるからである

思考の中には愛が無く、悲しみだけがあり、自分のことだけに関心を持っているエゴイズムだけが

存在している

思考自体が恐怖であり、自我であり、暴力であり、エゴイズムであり、憎しみであり、愛のないことであり

悲しみであり、苦しみであり、悲惨であり、時間である

その思考こそが「私と言う概念」である

私と言う「他を対象として認識する意識」があるところ、必ず憎しみがあり、暴力があり、恐怖があり、

エゴイズムがある、それがエゴイズムである

何故なら、その「私と言う概念」は思考そのものであるからである


おのれを忘れ果て、おのれが死人となって、自己が全く意識されない状態こそ思考の束縛から脱しつつある

証拠でもある



その思考とは起こる、起こっているものである、思考とはやってくる、やってきている

その思考する「人」も起こる、

その「思考している私」も起きているのであり、やってきている、観察者もやってきている

思考者も、行為者もやってきている、行為だけではなく、行為している者も私の意識の座に起こっている

ものである

とラメッシは言われている



思考も私ではなく

思考している人も私ではない

それは私に、起きている事であり、やってきていることである、それらはともに私ではない

それが思考であり、思考する人、即ち私と言う概念、個人であり、人格であり、第一人称であるものである

それらは私ではなく

私を詐称している物質であり、時間であり、質料であるものに過ぎない、あらゆる物質・質料の思考は

私ではない

私とは「見るものは見られるものである」であるのではないか

上江洲義秀先生も繰り返し述べているように私とは無限であり、質料ではないものである

それにも関わらず

感覚が自分であるという観念を受け入れ、自他が分離をしている感覚や思考というものを受け入れてしまい

私が肉体や身体であるという観念を受け入れてしまっているのではないか

自分が個別の実体であり、時間の領域内で生きており、徐々に進化し、成長し、そして最終には神と合一

するという虚偽の概念を受け入れてしまい、私はこのぐらいのステイトである、私の位階はこのくらいで

あるなどというエゴイズムにすっかりと覆われてしまっているのではないか


成長し、進化し、神の元に帰るものは私ではなく私と言う概念に過ぎない、それは思考であり愛ではな

いものだ

愛を否定するもの、即ち時間であり、このマーヤを生み出している恐怖自体に他ならない、

それらは皆、私ではない、それらは全てが映像であると、教えられている


進歩する私は、達成する私は、成就する私は「概念にすぎない私」であり、それらは思考であり私ではない

それらは私にやってきているもの、私に起こっているものであり、私ではないものである

と、教えられている


起こる事、起こっていること、やってきていること、やってくるものは私ではなく私ではないもの即ち

時間であり

それは悲しみだ、それは恐怖だ

起こる事、やってくることとは思考であり、第一人称であり、その第一人称が生み出している第二人称と

第三人称である


第一人称も第二人称も第三人称も思考や時間と同じようにそれは私ではない

私の前をやってきては過ぎ去っていくもの、私というスクリーンの前に生じている思考であり私と言う

概念にすぎない



その私と言う概念がこう言うのだ

私は進歩しなくては、私は努力して神の元に帰らなくては、私は良くなって成就しなくてはと

けれどそれは嘘である、

それらを願いそう言っているものこそが私ではないものである。それが思考であり時間だ

そしてその思考が言うのだ

私は肉体だ、私は生まれた、私は死んだ、私は成長した、私は良くなった、私は神に近づいた、私は悟ったと

そして更にその思考は言う

私は思考である、私が生きている、私が考えている、私が行為している、私が願っている、私が感じている

これは私の人生だ、これは私の輪廻転生だと、

けれど考えたり、知覚していたり、欲したり、願ったりすることで、それらは私ではないということを証明

している

それらは時間が生み出している「私と言う概念」が思考しているだけではないか、

私とは思考していないものであるから(とラマナ・マハリシは教えて下さっている)


思考が有り、思考している限り、その私や思考とは私とは関係のないものである

なのでラマナ・マハリシ方の教えて下さっているように

私とは在るのであり、既に在り、成るものや、成っていくものではなくて

既に愛であるものであり、個人ではなく、私という第一人称を全く持たないものであり、全体であり


「見るものは見られるものである」という実感を持っているものであると








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