熟睡時に気づきがある
真の私の意識とは熟睡時にも気づいている意識であると云われている
勿論、この現在の私は、熟睡時には眠ってしまっているので、気づきもなく,意識もなく、覚醒もしていない
しかし方向性として、
この「熟睡時に覚醒している気づき」へと向かうことは出来よう
この「熟睡時に覚醒している意識」とは、真の私の意識であると言われており
私が今までに、知り合った多くの覚者はそこの段階(次元)におられる
通常、熟睡時には、この自我(エゴ)である私は、「真の私」と接触しているのだが、それを認知していることが出来ず、自覚できない。
接触しているにもかかわらず、自我側では熟睡という「意識が完全にブランク・空白」という意識状態となってしまっているのだと云われている。
自己意識、この真の私ではない意識、マトリックスである意識、「夢見・熟睡し・日中の分離している意識」である現在意識の側から、この真の私である「気づき意識」を眺めると云うことは、出来るだろうか
実際にそこの気づきという意識に触れることは出来ないとしても
方向性としての「眺める」、ということはできるだろうか、未知なる意識へ注視することは出来るだろうか。
その、「気づき」とは、この自他が分離している、マインドの自我意識(マトリックスの意識)では推測することも出来ず、想像することも出来ず、何も分からないと云うこと、まったく未知なるものであると云うことだ
そしてそれは
このマインドによっては認識されるものではなく、
むしろ認識というこのマインドの意識(マトリックスの意識)の働き「認識の形式}がある限りはそこに貫入できないということ、
所謂この3次元や4次元というマインドの次元の範疇ではそれとは接触できないと云うことだ
自分が世界なのに外部に世界があると思ったり、自分も含めて他人や個人や人格が個別的に存在していると思ったり、時間は存在していないにも関わらず過去や未来や現在が有ると思っている次元の意識では、この高次元である「熟睡中の気づき」は体得されないと云われている。
即ち
私たちにとって、この認識と云うこと自体が、認識されるものと、認識するものという、主体と対象という分離を含んでおり、
私たちが認識しているということは、その認識と言う働きがマインドという分離の働きそのものであり、
それが認識をしており、認識するもの、認識されるもの、そして認識という分離作用をおこしているのだ
だから、その認識ということ、それ自体がマインドの分離作用なのだ
この現在のマインドの意識(マトリックスの意識)にとっては、「熟睡中の覚醒意識・気づき}は認識されない、だから熟睡がブランクで、意識の空白となってしまう
けれどこのマインドの意識にとってはブランクであり、空白ではあっても、「意識の座」は何ら影響を受けず、生命にも何ら影響は受けない
意識はブランクであっても朝にはキチンと目は醒めるし、生命は肉体は失っても、失っていなくても生き続けている
意識の座にとっては、夢見も、日中の分離意識も、そしてその「マインドの分離意識」が熟睡してブランクになることも全て来ては流れていることであり、やってきては去ることであるからだか
意識の座というスクリーンにとっては、それらはなんら影響はない、自我意識というマインドの意識が目覚め、そして夢見、そして空白になるという事が起きているのだ
そして現在の私は、たまたま意識の焦点が、そこのマインドの自我意識に合わせられているだけだ
意識の座は「在る」、それに対してマインドやその認識や体験や、知覚や記憶や人格はやってきては去るものである
と云われている
気づきの意識にとっては認識されるものもなく、認識するものもないと云われてるし
その「気づきの意識」とは意識の座そのものであるので、マインドや自己意識はそれに触れることは出来ない、
その気づき意識とは内奥からやってくるのだと云われている。
その内奥からやってくる「熟睡中に覚醒している気づきの意識」の特徴とは
「見るものは見られるものである」の意識であり、
完全なる沈黙であり、(但し思考がお喋りを一時停止している状態ではなく、思考が絶滅している状態であると云われている)
そして、その気づきの中には見るものも見られるものもなく、ただ一つであること、
だと云われている。
その「気づき」のなかに、もし微塵でも、「私」と「あなた」という分離があり、
「私」と「神」が分離しているなら、それは「気づき」の意識ではない、
それはマトリックスの意識であり、それは外部に世界があると思っている意識の範疇であり、それは熟睡時に覚醒している「気づき」ではない。
なぜなら本当の「気づき」であるのなら
そこには「見るもの・私」と「見られるもの・あなた・神」という分離は微塵もないからである
又それは、個人や個別性や人格や私・エゴは全く存在していない領域・次元であり
もし、その「熟睡時に覚醒している気づき」の中に、認識している私、観察している私、体験している私、思考している私、記憶している私、がいるのであれば、それはマトリックスの中であり、
夢から醒めた夢を見ているのだ。
ということだ
覚醒し、目が醒めたという夢を見ているのだ。
何故なら、そこにそれを体験し、記憶している私がいるからだ
悟ったと自覚している個人がいるからだ。悟った人間がどうして悟った個人を自覚するだろうか
悟ったと云うことは「私は最初からいなかった」「私は貴方であり」「全体がわたし」であるのであり
悟ったり、神に至ったり、真我実現する私というものは、そもそもの始めからいなかったと云うことであるからだ
それは実現したり、到達することではなく。最初から「今」のなかに「在った」ことである。と言われており
ラマナ・マハリシによれば
自我の根源である真我で在るとき、自我(エゴ)は最初から、そもそも存在しておらず、真我だけがあったと云うことである。これが聖なるパラドックス、死から蘇る不死鳥フェニックスである。
だからその悟った私を自覚したり、神を対象として体験し、認識していること
その認識をし、体験し、記憶していると言うことが、即ちマトリックスであるマインドの最大の特徴であり、それが偽物の私である徴であり、この自我の領域内であることの証拠である。
そこの「熟睡時に覚醒している気づき」の中には、それを意識している私も無く、意識されている対象も無く、そして、その分離している「マインド意識・自己」はないことであろう、非思考であることだろう、その思考はその時眠っていることだろう
この自他が分離していると思っている(見ているものと見られているものの分離)意識こそが、夢の続きの意識である、自我であるマインドの意識である
では実際に
あちらの彼岸にいってしまった方々の意識はいかなるものであろうか
それは、私たちの意識ではないので推測は出来ないが
全体であること、主体は客体であること、(従って主体も客体もないこと)、思考は一切、存在していないこと、
私とは始めから存在していなかったこと、即ち全てが私であったこと
全てがただ一つであるものであり、全てがひつつであること
対象は存在していないこと、客体は存在していないこと、
見るものはおらず、見られているものもなく、私もなく、あなたもなく
時間はなく、従って過去もなく、未来もなく、現在もないこと
良くなることはなく、既に良く、ただ完全完璧であること
と言うようなことであり
その「熟睡時に覚醒している気づき」であるもののなかに、もし過去があり、来たるであろう未来があり、良くなるであろう段階的進歩があり、進化があり、そして現在が有るならば、
それは「気づき」ではなく、私たちを搾取するものである、それは私たちのエネルギーに依存しているものに過ぎず、「気づき」ではない
「熟睡時に覚醒している気づき」という意識には、思考もなく、対象もない。と言われている
従って、そこには私はいない、
そして私がいないので認識もなく、体験もなく、より良くなることもない、〜に至る、実現するという時間のプロセスは存在していない
ただ「在る」だけがあるのではないだろうか
それだからこそ
私たちは、方向性として、その「在る」へと一歩を踏み出さねばならない
マトリックスという虚偽と錯覚を排除して
燃えさかる覚醒の炎のなかへとすすんでいくのだ
そして、消滅し、真の私である不死鳥(全体なるもの)となって蘇るのだ
そこには最初から私はなく、ただ一つなるものだけがあると云われている