真我の覚醒が先だ
自我の終焉は真我の覚醒が起こってから後に起こるとニサルガダッタ・マハラジはいう
まず
覚醒がある
無限の我が真我が自覚される
それから自我の終焉は訪れる
という
目覚め
それは
言葉を超えたもの、感情をこえたもの、知覚を超えたもの、形象を超えたもの、感覚を超えたもの
思考を超えたもの、言語を超えたもの、体験を超えたもの、認識を超えたもの、
それらのいわゆるマインドを超えたもの、マインドの意識作用ではないもの
肉体ではない
精妙体ではない
マインドではない
それは概念ではない
それは私の認識を超えたもの
認識されるものはそれではない
私が体験するものはそれではない
それはある
そして
自分を超えたもの
真の自分であるもの、真我
「存在」
I AM THAT
それの覚醒の後に
自我の崩壊が始まる
自我の終焉が訪れるという
このように
かれはいう
上江洲義秀先生も内側にそれを求めよという
それは一時も早く求められることを待っている
熱烈にそれを求めよ
全身全霊でそれを求めよ
それは、同じように両手を拡げて待っている、と
だから私達は
その真我に無限の我に
注意と気づきを向けよう
合わせよう
意識と無意識を成立させている
基底に
グランドに
注意と気づきを向けよう、合わせよう
そのマインドが沸き起こってくる元へ
根源へ、基底へ
深く沈潜していこう
潜っていこう
気づきを向けよう
その真我に合わせよう
限りない空間と無限の空間に
(途中で沸き起こるマインドや身体ではなく)
その無限の輝く空間自体に
無限の広がりを持つ空間自体に、空に
注意と気づきを合わせよう
意識を集中させるのではなく
意識を注意させ
何ものにも捕らわれることなく
ただ気づいている状態のまま
意識の中心たる主体を持つことなく
その主体を成立させている根源の主体へ
ただ
注意しよう、気づこう
集中ではなくて
集中は気づきを妨げ
主体をつくりだしてしまうから
だからこそ
主体の元である、純粋主体へ、超越主体へ
思考やマインドの作用ではないものへ
注意を向けよう
ただ気づきがあるように
気づきは中心を持たないという
始めはぎこちなくても良いとおもう
この真我に注意を合わせる行為は
真我が後押ししている
この行為はマインドの領域内ではあるが
マインドの領域を成立させているもとへ
行こうとしている
これは
根源が行わしている
後押ししている
これはマインドの幻想を
マインドの幻覚を錯覚を破る行為だ
寝ているときも
仕事をしているときも
友人とおしゃべりしているときも
家族と団らんしているときも
食事をしているときも
電車に乗っているときも
ドライブしているときも
忘れてはならない
無限の我を
真の私を
真我を
真我を
無限の我へ
全力を傾注して
意識を、気づきを向けるのだ
いま
ここに
気づきを向けるのだ