真我は何処に、真の私は何処にあるのか
先日上江洲義秀先生に私は質問した
質問:
「先生‥、真我は何処に宿っているのですか、どこに在るのでしょうか」
答え:
「………」
更に質問:
「先生、、ラマナ・マハリシは真我は胸のハートの心臓の近くに輝く中心として宿っていると言っていますけど
また
他のエソテリック・スクールでは胸のチャクラの中にそれが宿っていると云っていますが
また
永遠のパーソナリティーは身体の何処に中継地点があるのですか、観照者はどこにサハスララチャクラとどういう
関係がありますか」私は頭脳とその高次の意識との繋がりの関係が知りたくて更にしっつこく質問した
答え
「……………」
上江洲義秀先生は黙って微笑んでいた
やっとしばらくして
答え:
「そうですか、イエスの絵などを見るとハートに近くに輝くダイヤモンドとして象徴されていますけど
………………」
「…………………」
私は上江洲義秀先生は真我を実現し、自らが真我の意識そのものであるのに、何故答えてくれないのか、その
理由が分からないまま
後日、家に帰って、理由が分かった
私は反省した、
そうだ
この真我の質問自体が間違っていたのだ、
そのことに気がついた、質問自体がナンセンスなのだった
自分は、肉体やエーテル複体、サイキック体、ノエティック体やコーザル体、サイコノエティック体やチャクラやクンダリ
ーニなどという現象界でのそれらの乗り物と、その本体である意識や気づきそして真我を混同してしまっていた
のだった
しまった!、
先生への質問自体が誤解に基づくものだったのだ
真の私、真我、観照者、永遠のパーソナリティーはある特定のこの肉体やこのボディーやエネルギーの通路には
制約されないのだ
その意識自体、気づき自体、真我自体とはそれは時間と空間を超えているものであり
あらゆるところにあり遍在し遍満していて、全てを生かしている
のだと
常々上江洲義秀先生は言っている
「私(真我)は遍在している、キリストである真我、真の私は時間も空間も超えて、そして自分や他人、自他の
分離を超え、あらゆる物質、あらゆる生命、あらゆる植物、あらゆる動物、あらゆる意識、そのものであり、それ
らを生かしあらゆる全てに遍在している、
私(真我・キリスト・仏陀・宇宙意識・I AM)でないものものや、私(真我・キリスト・仏陀・宇宙意識・I AM)
でないところは何処にもない」
と、何時も云っていたではないか
ハタと気がついた
しまった、私は先生に間違った質問をしてしまっていた
その真我や観照者や永遠のパーソナリティーをこの肉体や多くのボディーやチャクラやクンダリーニなどという時間
空間の制約のある乗り物と全く同一化して、混同してしまい、肉体の何処に宿っているのかと錯覚してしまったのだ
った、申し訳ない…
私はその桐生の会場から家に戻るまでそのことに気がつかなかったのだ
何と、この一時的な現象である、真我や観照者の乗り物である肉体など各種のボディーと
意識や気づきそのものである真我、観照者の関係を逆転して考えていたのだった
意識や気づきの中に肉体や各種のエネルギー体は存在しているのに、
全く逆に肉体や各種のエネルギー体の中に意識や気づきが宿っていると錯覚していたとは、
自分はまだまだ、肉体と自分を同一視して、私は肉体であると錯覚しているのだ……、だからこそこのような間違
った質問をしてしまったのだ
…だから上江洲義秀先生は何も答えず微笑んでいたのか!、
恥ずかしい次第だ
そして
上江洲義秀先生にかなり前にした質問を思い出した
「先生、先生の中に世界が存在しているのですよね」
「そうではないよ世界ではなく宇宙が、この真我である私の中に存在している、だから意識を向けるところ全宇宙
の全ての事が、はっきりと分かるんだよ」
そうか、実際に上江洲義秀先生は真我そのものの意識であり、本当に宇宙意識そのものだったと言うことを、忘れ
ていた。
自分は先生の彼の肉体を見てしまい、上江洲義秀先生のことを肉体の存在と同一視して彼の意識そのものである、
宇宙意識を、真我を、彼とは別の意識状態であると間違って捉えていたのだった。彼は真我を実現していたのだ。
真我の意識そのものなのだ
彼の中では、いや彼という私の中に映る個人ではなく、実際の彼の中である意識、真我の意識とは、
「全てのものそのものであり、ワンネスであり、一つであるので、真我である意識の中は宇宙そのもの、あらゆる
宇宙の存在、全てが意識在るものであり、全てが含まれているのだ、従ってこの世界の全ての物質や非物質の
意識あるもの、すべてが手に取るように分かり、宇宙の全てが分かるのだ」
私は
まだまだ自分が自分自身を肉体と同一視しており、だからこそ、このように真我や観照者という意識・気づきに関して
間違った質問をしたり、上江洲義秀先生のことをも彼の肉体と同一視していたことを深く反省した