五感の拡大・拡張について
意識の目覚めに伴って五感が条件付けから開放されるケースを
このところ自分の回りで良く見るし
友人達に起こっているのを見て
そうか、五感というものこそ一番始めに、意識とその成長に伴って、
変わっていくのだと痛感した
視覚について
視覚の拡張を良く霊眼などと言い、
それは自分が低次のヴァイブレーションを放ち、かつ、
肉体を含むどこかの諸体の視覚神経組織が損傷しているときに発生している
視覚をそのように呼称されるけど
そういう低次の現象が引き起こす視覚ではない視覚、
意識の向上に伴って、発生する視覚が存在する
現在の視覚を感じている本体は、自我(エゴ)が覆っている
意識そのものであり、
その意識そのものは本当は宇宙に遍満しているのだと思う
けれど、実際的にはこの、現象界の自我(エゴ)であるサイコノエティック体を
通じて意識は働いているので、
このサイコノエティック体のレベルのものしか同調出来ず、認識できないのだと思う
即ち見ることは出来ないのだとおもう
しかしサイコノエティック体の成長に伴い
この視覚はもっと、もっと拡大しハッキリと見えてくることが
可能になっているのだと思う
今まで見えなかった、世界が自分のサイコノエティック体の
バイブレーションが上がることによって、
頭脳の条件付けが緩和して、その情報を受ける
意識の受信器の性能がアップして、
多くのチャンネルを同時にハッキリと受信できるようになる
世界の裏側に住んでいる人々のこともそうであろうし、
地球の空洞世界の人々のこともそうであろうし
高次のヴィジョンを見ることもそうであろうし
オーラや守護して下さる方々や天使もそうであろうし
幽界や霊界の多くの階層にいる方々の状態も
自由に見ることが出来ることだろう
地球を指導に来られておられるエルダーブラザーの方々や
また
私たちに注がれている
おおくの愛の波動を実際に見ることなど
この視覚が
徐々に向上して見ることが出来
そして更に
この現象界を支えている基底の実相の世界も見ることすら出来るだろう
それは体験した人々によれば全てが光り輝く愛の世界らしい
そして更に
真我が覚醒したなら
見るものは全て神のみ、自他の分離の全くない非二元性の世界が実際に
現出するらしい
この状態は「開眼」と言って、第三の眼が完全に開いた状態で
上江洲義秀先生などの状態であり
神以外は見ることはない
全ては神のみ、という視覚である
この視覚は神眼という真我の感覚であるといえる
これは
同時に全てを見ながら理解し、同時に全てをあるがままに見ている状態、
瞬時に多くを同時に見ることが出来るらしい
そして、見る主体が全てであるらしい
この視覚・知覚能力は
想像することすら出来ない
スパー視覚である
聴覚について
聴覚も同じように、サイコノエティック体のレベルに応じて、
頭脳と意識の束縛がとかれて、聴覚が飛躍し
花の声や、
石の声や、
精霊の声や、
守護霊の声や、
天使の声やおおくの存在の声も同時に聞けるようになってくる
そして自然界に溢れている壮大なシンフォニーが実際に流れていることを
聞くことが出来るらしいが、
これも多くの過った霊能者によって霊聴などという、
エーテル複体の病気、頭脳の病気で起こる現象と同一視されて、
ワサナやエレメンタルなどの声を聞くことが、
聴覚の拡大と間違って解釈されることは非常に嘆かわしい事であるといえる
しかし真に自己のサイコノエティック体の成長に伴って開けてくる聴覚は、
宇宙からの壮大なシンフォニーを聞くことであるばかりではなく
言葉というこの物質界や幽界・霊界で通用している
マインドの言語ではないものへ、と
私たちを導き、言語や原言語というマインドの制約を超えて、
ことばの大元へ
大きな大文字のマインドの世界の「テレパシー」という
高次の共通の沈黙言語の世界へと私たちを導いて行くに違いない
「テレパシー」こそまさに高次のサイコノエティック体の伝達機能であり、手段であるといえる
上江洲義秀先生を見ても分かるように
真我のその五感能力、そのレベルは想像を超え、
この聴覚も同じく、
瞬時に多くの人々の声を同時に聞き、
瞬時にその実相を把握するという、
すざましい聴覚・知覚である
味覚・嗅覚・触覚について
これらも同じように私たちのサイコノエティック体の進歩に従って
その知覚の能力は計り知れなく拡大し
見る対象のその相手であるもの、そのものとして
味わい、嗅ぎ、感じ、体験するので
高次の意識の方々の聖なる香を嗅いだり、
今までは体験したことのない
素晴らしい香という感覚の世界が開けてくるらしい
味にしてもそうで、本来の果物や野菜の持っている味というものは
私たちの味覚が麻痺しているので、味わうことがないのに
私たちのサイコノエティック体の進歩に従って味覚という感覚も飛躍し、
聖なるものを味わうと言うことが可能になって来ると言う
また触覚にしても、サイコノエティック体の進展に合わせて、
この肉体という束縛を実際に離れていく度合いに従って、
自分の中にこの地球が存在することを実感し、
意識を合わせたその対象そのものとして、感じるという
たとえば私が平原に遊ぶ鹿を、鹿自身として感じ、
その鹿として外界を感じることが出来るという
樹木自体、石自体として感じる事が出来るという
知覚について
そして知覚そのものであるが
これらの五感は総称して知覚と言われる
その五感という感覚を「知覚」し
知覚たらしめているのは
マインドであり
その意味づけであり、感情であるのではないか
であるので
その感覚を成立させ「知覚」たらしめ
感覚として認知させているのは
マインドという思考や感情であると言うことであり
このマインドが存在していなければ
もしその映像や音声がやってきても
意味をまとめ解釈することが出来ないことから
その映像や音声を映像たらしめ音声たらしめているのは
知覚であり
その知覚を成立させているのが
思考や感情であることが分かる
でこれらの五感と言うものの拡大と、深化、進歩は
サイコノエティック体の成長に従って発生し
この五感の知覚を知覚たらしめている
と思われる
マインドそのものが、徐々にバイブレーションを上げ、向上させ
周波数が、大文字のマインドに近づくと言う作業が行われた
その結果、生じてきた成果だと言うことである
これが知覚の拡張をもたらしたのである
勿論、今此処では
現象界の私たちのレベルのことを話しているので
上江洲義秀先生達の覚者の実相界のレベルではない
私たちは現象界レベルで
サイコノエティック体の周波数を上げるためには
ワークが必要である
自己観察・自己想起である
そしてそのワークの結果
これらの
感覚と知覚をまとめている本体であるもの
知覚を認識しているもの
それらの
マインドであり思考と感情の周波数が上がるのである
レベルがアップするのである
これらのことは
大まかに言って
この私達の通常のマインド以外に
まだ地球人が到達していないマインド
高次のマインドの世界(勿論現象界のなかで)がある
それの現象界世界が開けてきた場合は
テレパシーやテレポテーション、
そして同時に多くの場所に(物質界や幽界霊界を問わず)分身して出現し、
それぞれが本体として働くことが出来る段階や
多くの人の声を同時に聞き、
一瞬に同時に全てを見て全体を完全に把握する、
聖徳太子のようなこともこの大文字のマインドに含まれるとおもわれる
そしてその先の意識の能力は、更なる真我の「気づき」という状態である
非二元性の意識の世界
しかしこのレベルの実際の知覚というものは、
あまりにも、私たちのこの一番低レベルのマインドの意識状態からは
推測することも、想像することも、押し測ることが出来ない
ただ言えることは
この五感という感覚は
今現在の人類にとって
非常に制約されており、
肉体の頭脳に条件付けられ、縛られ、
この肉体に付属しているものと間違って解釈されていることである
真実は知覚は肉体に制約されていない
視覚は、聴覚は、味覚は、嗅覚は、触覚は、
いまもの凄く肉体に縛られているようにみえる
だから眼というものを肉体の眼だと錯覚している
五感を肉体の知覚だと錯覚している
視覚が発生するのは、光により対象の情報がこの肉体の眼を通じて
神経から頭脳を経由して、
サイコノエティック体に届き、観照者が意識しているのだ
そして、これが、この経路が向上し、経路が太くなり、別ルートも増えて
幽体や霊体の眼のみならず、
意識そのものが直に見ることが出来たとき
本当の真実の世界が現出し
マインドというベールが架からない
本当のワンネスの世界が知覚されることだろう
そのとき、
その視覚を成立させているものは
マインドでも、
大文字のマインドでもなく
意識そのものであることだろう
そのとき
その視覚には私たちは区別できる個人存在ではなく
自他の分離が全く存在しない
一体であることがうつるだろう
しかし
この状態は、想像できないし
推測すら不能だ
想像し推測できるのは
せいぜい大文字のマインドの上位次元の世界での知覚に過ぎない
しかし
真我という宇宙意識の次元
此処に至った人達が私の回りに出現し始めている
この非二元性という神の眼にへ、である
ここへは私たちの中にのみ
そこに至る道がある、
出発点も、終着点もある
それこそ
本当の私
「I AM TAHT I AM」である
全体そのもの
存在そのもの・非二元性・
「見るものは見られるものである」である
存在それ自体である
本当の私である
それこそ神そのものである、と
覚者たちは言われる