求めるものは遠ざかっている
672夜さんのホームページから素晴らしい言葉を見つけたので、ここに紹介したい
・目標や理想や未来に向かっているとき、現在(あるがまま)から遠ざかっている、逃避している
(久保注:
現在のあるがままこそが真我への扉・入り口なのに、この現在(あるがまま)から逃避しているので目標や理想や未来に向かってしまうのだとおもう。
目的や目標として真我の経験をしようと努力するものは、逆に目が未来へと向いてしまい、真我の入り口である現在というあるがままの自分から離れて遠ざかってしまうのだと思う。
それは現在の実在というリアリティーから、未来という観念の虚構世界へと迷い込むことではないか
この現在のあるがままの恐怖と暴力と憎悪と不安にまみれている自分こそが真我への入り口なのではないか
この自分を非難せず、愛情を持って受動的に、且つ言葉を使わずに全体として凝視することが、まずはじめに行うべきことではないか
真我という宝石は、この現在のあるがままの自分の中にあるのではないだろうか)
・求めるものは遠ざかっている
(久保注:
これも将来の目的や理想に向かって何かになろうとしたり、至ろうとして努力し、頂上体験を求めたり、覚醒の体験や経験を求めたりしていることなどは、現在のあるがままから目をそらし、現在から逃避している証拠である、と言えるのではないか。
現在のあるがままから目をそらし、このあるがままから逃避しているからこそ、〜になろうとしたり、〜に至ろうとしたり、良くなろうと目が未来や将来という虚構観念世界に向いてしまう。
だから「良くなろう」としていることは、未来という虚構の観念へと向かっていることであり、「良きこと」であるこの現在(今への連絡通路)という実在であることから離れる結果となる
だからこそクリシュナムルティーは「良くなろうとすることは、良きことの否定である」と言ったのではないか
良くなろうとして経験や体験を求めていること、それはあるがままという現在から遠ざかっていることだ
現在のあるがままこそが真我への入り口であり、これに反して良くなることを求め、経験しよう、体験しようと何かをすることは、この現実の実在・リアリティーから反対方向の虚偽・錯覚へと行こうとしていることだといえる。
求めているということは、現在の状況が「良くない」ということを、強く強調していることに他ならない、これは現在は良くないのであるということを強調する結果となってしまい、目が現在のあるがままに向かず、逆方向の未来を向いてしまうことになる
求めるていることは、良くないこと、何かが足らないことを意味し、欠けている状態を強調して、結局はその「欠けて」、「良くない」状態を招来してしまうことになる。
求めるということは現在のあるがままという宝から遠ざかっていくのみならず、この現在から離反することで観念の牢獄に縛られてしまう、従って求めるものは宝である現在から遠ざかっていくことである)
〜になろうとしているものは遠ざかっている
(これも同じように〜良くなろう、〜真我実現しようとするものは、それを願っているにも関わらず、無意識的に逆の良くない状態、真我実現していない状態を招き寄せ、真の宝である現在のあるがままから離れていくことになってしまうのである。
このように〜になろうとすることは
同じように現在のあるがままこそが入り口であるのに、目が現在ではなく将来に向いていると言うことで、現在というあるがままから逃避していることであり、これは現在というあるがままから遠ざかっていくことだ)
だからなろうとしたり、求めたりせず、体験も経験も求めず、何処にも行かず、自分を忘れて、今此処のあるがままを、あるがままに受動的に、言葉無く、思考無く、暖かく、凝視することが、私たちの出発点ではないか、とそのように思われる