信じることの重要さ
ラマナ・マハリシは言う
『「真我探求」とは何か?それは、私が未だに真我実現していないと考えさせる、その思考(障害)を取り除くことである』
「真我実現しようとおもうものはその思考であり、概念でしかないのだ」
だからこそ、このマインドの習性というものを良く理解しておく必要があり
このマインドの持っている力を最大限に引き出し、マインドに協力していただき、マインドの力を使って
このマインドの真我への方向性とパワーを引き継ぐ形で真我からの力が働くのだと思われる
これは信仰の力を使うということだ
真我が実現していることが顕現するためにはマインドを使わしていただくことである
マインドとは「私は何とか今生こそは解脱し、真我を実現しなければならない」と思う場合、その「実現しなければならぬ」と言っている
本人のその状態である「真我実現していない状態」ということを強く実現し、招いてしまうのである。
同じように「真我の顕現のためには思考を停止させなくてはいけない、だから瞑想し思考をストップさせよう」と思うことが、
マインドにとっては「思考をストップさせなければならないほど私の思考は騒いでいるのだ」と言うことを強く印象させてしまい、
マインドは「私とはこの思考をストップさせなければならないほど、思考が騒ぎたているのだ」、という内面の状態を作りだして
しまう結果を招くのだ。
マインドにとっては、だから、「私には既に何の思考もなく、私はこのように平和で、静寂である!!」と強く、思い込ませることが
一番の得策なのだ
「真我実現のためには、絶対的に静かにして、微塵も思考が起こることなく、思考が寂滅することが絶対条件
である、と思われる、だから静かにしていよう」などと思う事が、それがそのまま
マインドにとってはその逆の状態である「私は静かではないのだ」という事を、強く印象づけてしまい、(方向付けていることになってしまい)
その結果として、思考を停止しようとすればするほど、その「私は静かにならなければならないほど静かではないのだ」と思い込んで
その思い通りに思考は静かでない状態が出現してしまうのだ。
こういうときは、逆にマインドの習性に協力して貰って、「私は既に完全完璧、何の問題もなく、私の思考は完全に静止しているのだ!!」
「私は既に在るのだ!!」と強く念じ、そのように信ずるのだ
要するに、このマインドに一番影響を与える方法である「信仰と信念の力」を使わして頂いて、効果的にこの力を援用するのである
そうして実際にマインドはその信仰と信念と思い込みの力でもって、静まってくるのだ、これがマインドの力を使うということだ
そうしてそこから先は、その信仰や信念を引き継いでくださる形で、私たちの帰依の内実に応じて実際の本当の魂からの沈黙が
発動されてくるのではないだろうか
「既に私は霊であり、全体であり、歓喜そのものであり、思考を超えている非対象の意識・気づきであるもの」といわれているのだから
それを、そのまま素直に、絶対的に確信して微塵も疑わずに「ハイ私は在るものです」が一番良いのではあるまいか
このマインドに関連している領域では「南無阿弥陀仏」「我は既に仏なり」という信仰が、最高に力を発揮し、その状態を実現してしまうのだ
「既に真我実現しているのだ」との固きその信仰と信念を引き継ぐ形で、思考を超えた「あちら側」からの恩寵がやってくるのだ
『目を瞑ると記憶が意識を覆い、想念が去来しているこの私、この瞑想している私とは私ではない
時間と空間を認識している私は私ではない、対象を認識している私は私ではない。
私ではないこの私・思考記憶体とは、私ではなく、それは単なる結果である
この私は私ではない。自分だと思っているこの私とは概念であり、気づきではない現在意識なのである。
この瞑想をして、何かに成ろう、何かに到ろうとし、努力しているのは私ではなく観念であり記憶でしかない
これらの記憶の私など、今此処に在る私ではない
本来の私はノーマインドである。無思考であり、非対象である、空間である。そしてただ一つなるものである。といわれている
偽の私にとっては未知なる私ではある。』
と、このような言葉に接して私たちが、現実の自分と照らし合わせた場合に於いてだが少し注意する必要が有るのだ。
「肉体は私では無く、感情も思考も私ではない」と此処までで良いのだが
ここから先に『けれども、この「未知なる私こそが私」だ、と、思っているのは、マインドであり
現実の私とは「現在意識というこの真の私状態ではないところの思考の私」なのだ、この私は停止しなければならないのだ』
等と思ってしまってはいけないのだ
「最終的には、この思考の私は絶対的に停止する必要が有るのだ」と思う事はマインドにとっては逆効果となり
その「思考を停止しなくてはいけない」と思う事が、「思考が停止していない私」状態を強調してしまい、その結果かえって
「思考が停止していない」状態を強く招いて、それを実現してしまうこととなるのだ
だから、何の疑いも抱かずに幼子のように「わたしは既にただ一つなるものである」との信仰の強さが、マインドにとっては一番大切
なことなのだと思う
私とは転生していないものだ(予想図) |
|
私 | ■非対象・無思考・沈黙・空であり、気づきであり「見るものは見られるものである」の目である私 ■今此処に在る私、あるがまま |
観照者 |
この私が自らを再認識するために、現象界を作り、自分を現象界に顕現させた 現象界に触れている真の私であり魂の最奥のエッセンスでもある私・観照者 |
私から 放射された魂としての私 (観照者の一部) |
■現象界の時間というマインドに触れた魂(ハートの中心である無思考・非対象)の一部として、 自と他を分離し、時間であるマインドという無知である概念に取り囲まれ、ハート(真我からの窓)という 「鏡」(魂という可塑性のある)が曇りに覆われた状態となりました |
(このハートは高等思考であるノーマインドを使います) |
|
マーヤ 聖なるマトリックス 根本無明の私 (これに魂が頭脳にて接触する) |
■聖なる催眠、又はマーヤ、又は根本無明など多くの言い方がある、 ■上江洲義秀先生流に言えば神の現象界での道具である「心」といわれる ■時間そのもの、二元性であり、分離性、自他を分割し、見るものと見られるものを別と考える概念・マインド |
魂の鏡という スクリーンに 映し出されている マインド即ち 第一想念の私 (観察者) (自我) |
■真我から派生した魂は 時間と空間、自他の分離、内部と外部の分割(対象の出現)、思考とその感覚を引き起こしている 「無知というマインド(根源的に主体と客体に分離している根本無明)」が覆っている現象界 (二元分離のマトリックス)にある身体の頭脳に降下し、そのマインドと接触し、 その結果として、この条件付けられた頭脳に結合して、自他の分離というマインドの映像・概念に覆われてしまいました (そののちに、再びこの魂は、物質界に再誕する為に一旦、頭脳との結合を解きますが) ■そして、その頭脳に上映されている根源・マーヤからの映像であるところの私自我や、肉体、そして 行為、思考と感情や欲望などを、その同じマインドの記憶の集積である自我が、「私が思考し行為して いるのだ」、と錯覚したのです (この「魂である鏡」というスクリーンに上映されているものであるのにも関わらず、その投影されてい るこの肉体を「私」だとマインドである自我が錯覚したのです。) ■この自我が、スクリーンの上映物にだけ注意をそそぎ、スクリーンであるわたしを見ることを 怠ったのです ■しかし、そのスクリーンに映し出されている「私」も、「行為」も、「肉体」も、「感情」も、「欲望」も、 「運命」も、「出来事」も、「意識」もマインドの映像であり、 それは頭脳にやってきているものであり、その「登場人物・私」すらも私ではなく、 勿論「わたし・魂」でもありません 「わたし・魂」とはそのスクリーン上の映像を観察している観察者ではなく、それを映している スクリーンである鏡自体だとおもわれます (スクリーンの映像を見ている観察者とは、その映像の一部が自らを分割したもの、即ち自我です) ■頭脳には根源からの道具であるマインド思考というものによって、ある物語が投影され、上映され ており映像が映し出されております 根源⇒マインド⇒私⇒思考・意識⇒感情・恐怖⇒言語・知識・情報 というように私も、肉体も、欲望も、その欲望の結果も、考えも、想念も、意識も、肉体の行為も、 出来事も、カルマも、世界も、宇宙も一切が内部と外部に分離し、主体・対象として分離したように 時間を伴って映し出されているのです ■この映像上の自分(マインド)が「私は肉体だ」と錯覚しました、この想念が第一想念と呼ばれ ている自我である私です 「私は肉体だ」という記憶が積み重なり自我という人格が生み出されます このようにして頭脳内の「思考である私」の記憶が、人格というものを作り上げ、この人格が 肉体の死後も生き残り、再誕生の際には、魂の指示の元に 新しい肉体に入り込み、更に転生を重ねて継続し、ますますその概念・私が強化されていきます ■そこの脳内には、肉体や思考や感情や欲望のみならず、外部のものとして 世界や宇宙も投影されて上映されています。 それは全ての頭脳が、人類の頭脳が共通して同じ根本の「無知というマインド」によって 支配され、 同じ時空間という共通幻想を共有し、同じように自他を分離してしまい本来のあるがままが 見えなくなっているからです ですので、この根本無明というマインドの時間領域内の意識そのものが 到ろうとしているマインドであり、進化しようとすること、良くなろうとすること、であり これこそが観念・概念という幻の性質であり、この無明こそが、「〜になる」 「〜に到る、〜をしたい」ということを欲するのです この時間の過程には苦しみと恐怖と悲しみしかないのにそれをマインドは飾り立て、マインドから 生じた自我は錯覚してしまいます。自分も世界も良くなるのだと。 中は腐ってウジ虫が一杯なのに、素晴らしいと思ってしまうのです この記憶体が、自らを永続しようすること、継続しようとすること、 最終的には神になることをこの自我自身が欲して、この輪廻というサークルを継続させ この輪廻というサークルに縛られてしまうのです、この錯覚がカルマを作りだしてしまうのでは ないでしょうか しかしこれらは全てが根源がしている演技なのではないでしょうか。 全ては結果なのではないでしょうか |
第二想念 (私ではないもの自我の反応)→ 思考・記憶→感情→肉体→世界 |
■このマインド自体である記憶・私が結晶化して自我となり、それが頭脳にやってくる「あるがまま」に対して、マインド自我としての条件反応を起こします。 やってきているあるがままを分離した外部のものとして捉え、対象として認識し、この認識が葛藤を生み 出します 「良くなろう」「こうしなければならない」などです。この自我の反応を第二想念と言います これが矛盾と葛藤と恐怖を生むのではないでしょうか ■自我とは、マインドの記憶の塊であり、この記憶からの反応が第二想念と呼ばれているものです ■「あるがまま」を、見るためには無思考、非対象で見る事(第三の目)が出現していなければなりません (自我が魂と繋がる状態) やってくるものを「あるがまま」にもし見る事が出来れば、そこの目にはただただ愛と完全完璧「ただ 一つなるもの」しか見る事が出来ないと言われております、 |
自我の輪廻サイクルとは | ■このマインド・想念の記憶である自我は、 それ「自身の記憶」から、私という自己意識を持ち始めます。物質は意識だからです。高度のPCが自意識を持ち始めたのと同じです ■そしてこの記憶である自我は自己の不滅と存続を希求するようになるのです そして、その存続を自我が願望し、輪廻のサイクルが出来上がります、巨大な錯覚が始まったのです。 自我は魂が用意した新しい肉体に入っていくのだと思われます ■これはPCやロボットが記憶の集積から自意識を抱き始めて、自己の、存続を願い始めるのと全く 同じプロセスです ■自我は過去世の記憶を遮断された状態で、この肉体の頭脳に結ばれ、胎児からこの頭脳の中で、頭脳を通過するマインドとこの条件付けられた頭脳と自我との三者の共同作業で、過去世の自我群ワサナとサムスカーラとカルマの影響を受けながら「設計図」に基づいて新しい人格を形成し始めます ■そしてその自我という記憶体は、頭脳のある部分に結合して、その頭脳に起こっている映像や思考や肉体を「自身が行為し」、「自由が意志し」、「自分は肉体だ」と固く思い始めます。 ■それは肉体の死後、更に自身の存続と継続を希求した結果として、 霊界での永い生活の後に再誕生の準備に入ると、 自我は霊体脳から切り離され、そして更に魂からも離脱し、眠った状態でプールでの待機状態に入ります 自我はカルマと一緒に、その同じ魂が再び下生してくる肉体に接点を持つまでじっと待っているのです ■有る一定期間、同じ魂から作られた同一グループの「自我という記憶体」が集合しているのプールのようなものの中で待機状態となります、 ■しかしそこのグループのプールには無数の過去世で、この魂が作り出した「私という記憶体」である自我達が再誕できるのを待っており、この中で最新の過去世の特定の人格である「私という記憶体」が、この自我に連なる過去世の私たちを引きつれて、新しいこの肉体の中に入る栄冠を得ることとなります。しかしそれには過去からの自我達が無数の数珠のように連なっております ■これは、新しい肉体を得ることを切望した、「私という記憶体・自我」が精子となり受精する瞬間に起こります こうして数ある「私という記憶体」のうち最新の自我が、グループ内を代表して精子となり縁に引っ張られて、魂が準備した新しい肉体に、再び願望通りに、新しい肉体を得ることが出来ます。 ■このようにして魂は新しい肉体の頭脳に再び宿るときに、そこに同じように過去の人格であった「私という記憶体」も同時にその脳に緩やかに結合されます、これが自我群・過去世のワサナ達です。 このワサナ達がサムスカーラとしてこの新しい人格に影響を与え続けます ■このようにして過去の人格は、新しい肉体を得て、再び新たなる人格と個人という自我を作り出し、輪廻という連鎖が続いていきます、無数に連なる数珠のようにです。 マインドが生み出した数多くの人格や個人という自我は、丁度、数珠がひもで結ばれているように、この肉体に宿った最新の自我には幾つもの過去生の自我が新しい自我と共に無数の数珠のように結ばれております ■この自我という記憶体は、自我を観照している魂の誘導に従って、新しい肉体とカルマを持ち、自分は永続しており輪廻しているのだと錯覚するのです ■しかし実際は、この自我は永続しておらず、数千数万という過去世の私・人格が数珠のように一つに束ねられているだけなのです。その自我は魂ではなく、魂という窓に上映されている個人という映像です |
気づきの前段階 (自己観察・自己想起) |
概念である私に求められていること ■自己想起が求められています ■魂の私、鏡の様な大きなスクリーンが魂の私です、 ■この魂の私に注意を集中しながら、そこに映し出されている、やってきているあるがままの憎しみと欲望と悲しみと恐怖を、そしてその欲望と悲しみと恐怖に対応している自分である自我をも思考なく見つめること。 何故なら魂の私と言うスクリーンに「その見るものと、みられるもの」という映像が分離したものとして映し出されているからです。それを分離することなく見つめることが肝要だと教えられております ■私とは映し出されているものではありません、鏡に映し出されている意識の内容こそ「自我」というものであり、私ではないものではないでしょうか、映し出されているのは自我である観察されるものであり、同時に見ている自我という観察者です ■私は鏡であるので、そこに映し出されている「自我」をあるがまま映しだして見ているのです、私が鏡であるとき、その映像を見ている観察者の私も、そこに写っている自我も異なるものではありません。同じ自我です ■私・鏡とは、「自我」を映し出すものです、それが鏡です、そしてその自我が見られることによって粉砕されたとき、映し出されているものが空間である真の私であると言われています |
気づきの特徴とは |
気づきとはマインドではない、思考ではない、無思考、非対象である沈黙の中に魂の中核から出現するものであると云われます |
気づきの中には、マインドであるところの 認識するものもなく、認識される対象もなく、認識もない 体験者も、体験される対象もなく、体験もない 記憶するものも、記憶されるものも、記憶もない 主体も客体もなく、私も、世界もなく、時間もなく、限定された空間もない これがマインの根源に到った真の私の状態であると云われます |
|
■私である魂に触れて頭脳が変革を起こすこと、そのことで肉体も環境も魂の秩序を帯びるのであると 云われております (魂に触れることによって、頭脳の条件付けが解消され始めるということでしょうか) ■そして、その頭脳を通じて表現されている肉体が、アストラル体が、サイキック体がそしてそれらを繋いでいるエーテル複体が、そしてチャクラが、整って、内なる魂の波動と同調現象を起こし始めることが物理面から見た場合の気づきではないでしょうか ■平たく言えば、内なる魂と頭脳をはじめとする諸体が同調現象を起こし始め、同じ波長となり、魂の輝きが肉体を通じて輝き出すことだとおもいます、 是を肉体とサイキック体と思考体の三体と魂の同調即ち三体整合ともいわれるようです ■この時、求めてもいないのにエネルギーの中枢(クンダリーニ)の覚醒が自然に始まるのであるといわれております |
|
事実とは (賢人の言葉より抜粋) |
■肉体は私ではなく、感情ではなく、思考でもなく、マインドでもなく、時間でもなく、自他の分離でもなく、記憶でもなく、経験でもない ■条件付けられている頭脳は、私ではなく、その脳内に出現している感情も、思考も、肉体も、世界も、出来事も、欲望も、願いも、世界も、私ではない ■マインドのやってきているもの、それは聖なる幻想として起こっているのだ ■肉体や各種身体の行為とは私の行為ではなく、行為が聖なる根源によって起こっているのだ ■その肉体や身体の頭脳の記憶とは、自我の記憶であり私の記憶ではない、私とは記憶ではなく、記憶を持っていない ■脳内にやってくる根本分離という(肉体や世界を投影している)ものはマインドであり、根本無明という第一想念であり、それは私ではない、自我を生み出すものマーヤだ ■真の私を再認識するために現象界に出現した魂とは(上位と下位がある)私からの光線ではあっても、究極的には真の私の一部である ■魂の旅とは最初からなかったし、帰還することもない何故なら始めから「いまここ」にいて、動いておらず出発していないからだ ■何も起きておらず、全ては安全完璧で今・此処・あるがままに在る 時間もなく(クリシュナムルティーは言われます『時間とは思考が、その達成に向けて旅する距離のことで、そのたびは何処にも行き着きません』)「限定された空間」もなく、現象もなく、最初から既に「私はただ一つ」であり、無限、無思考、非対象、歓喜、ノーマインド、非分離、非二元、沈黙 そして空、空のみが私である 私はただ在る 「在る」と |