自己関心という自我に愛を与えよう
この意識の中身とは重層的である
覚者の究極からは見れば全てはマインドではあっても
この意識の座には色んな所から来ている思考が有り、それを一括りで糞尿と呼んでしまうことは難しい
この意識の座にやってきていることがエゴからのものか、それとも魂の反映からか、それとも誰かの想念を
反映しているだけなのか、記憶からのフィードバックなのかを見極めることは大切だとおもう
意識の中身とは究極の立場からすれば全てがマインドであり気づきではないとしても、
その気づきからの反映と言うべき高等思考や魂からの呼びかけもあるので
注意していないとそれをエゴからの意識と混同してしまう
また逆に、同じように魂からの反映と思っていることがエゴからの意識でしかないこともあるのだ
そういうわけでこの認識の対象であり主体でもある意識の中身とは全てが二元性ではあっても、
そこに思考を超越している次元からの反映もあるのだ
けれど一番ハッキリとエゴからのものだと判明しやすいのが、
魂の対極であるエゴからの思考である、「自己を中心にした思考」である
それは同じ意識の座にやってくる数多くの思考の中にあっても
波動や色や形は全く異なっている
それがいわゆる自己関心と呼ばれているものである
自己関心とは
@自分が他人からどう思われているかを気にしている状態であり、従って自己を見ていない状態でもある
Aそれは、他人のことを全く無視している状態、すなわち他人への関心がない状態であり
他人へのゴシップで一杯になっている状態でもあり、従って他人のうわさ話で花が開いているという他人への関心が
全くない状態でもあり
B同時に、自分の事を非難や正当化なしで正しく見るということをしていない状態であり、なろうとする欲望や、
偉大になろうとする欲望に取り憑かれている状態である
Cそれはすなわち自己のマインドがエゴの思考に占領されている状態である
この四つの状態は同じでありすなわちエゴによって意識の座が占有されているのだ
それはとりもなおさず
★自分のことを他人より優先して気にしている状態、有名になりたいという欲望に囚われている状態
★自分が他人より先に名前が呼ばれることを願い、自分の順位を気にしており、他と比較して神にどのくらい
接近しているかを気にかけており
★自分が他人より優越しているか、どのくらい所有しているか、そして比較して自分の優劣を常に気にし
★自分の階位がどのくらいで、誰が神の右側に座るかという自分のことばかり気にしている意識状態
★自分が表彰され、一番になること、特別の人になることを願っている意識状態である
★自分がどのくらい到っているのか、どのくらい実現しているのかを心配し
表彰や業績や崇拝され敬われるれることを気にかけている意識であり
それこそがエゴの意識の最大の特徴である
優越感や劣等感は自我の特徴であり
その中でも
特に、自分が崇拝されたい、一番上等の上座に座りたい、尊敬されたい、
そして如何に自分が偉いのかと云うことを他人から分かって貰いたいという事こそがエゴであり
他人からどのように思われているのかを気にし
他人から良く思われたいと熱願しているのがエゴの特徴であり
そのエゴに覆われているときその時
自己関心というもので意識の座が塞がれているのだ、そしてその時他人を思いやる魂からの反映である
自己の観察であり他人への関心という思考は影を潜めてしまっている
自己関心から解放されているときに、初めて他人のことに関心が向くのだし(ゴシップとは正反対のもの)
そしてその自分を忘れている状態にあるとき、初めて自己を観察できる事が可能になる
逆に言えば
自分を忘れているとき、自分を観察する事が可能になるということだ。
そしてその時、高次思考の入り口に近づいているのではないか
他人への関心が高まり、自分を他人と同じように見る事が出来るようになるのだ
自分も他人も高等思考にとっては、全く同じであり、同じように重要なのである
その高次思考とはエゴの所有物ではない、個人や人格の所有物ではない
その高次思考とは「真の私から派生している魂」からの反映なのだ
けれど意識の座に起こっているその全ての意識が自分という意識をもっているので
その高等思考も
意識の座の中ではごちゃ混ぜになって一緒くたに一括されてマインドと呼称されている
だから
この現況の意識というものは「真の私ではない意識」というものではあるけど
真の私からの反映のものもあり
また魂からの反映のものもあり
エゴではない「万人共有の高等思考」というマインドもあり
自我でありエゴからのマインドもある
それら全てが私として認識されているのだ、このように全てがマインドである二元性ではあるけど
これらは波動も質料も香も形も違うことであろう
けれどもそれらはこの二元性の中での違いは明白である
この高等思考こそが
自己関心を持っていないこと、すなわち自分を忘れていることが魂への出発点である
それではこの高等思考は
これらの自己関心というものを、自分が良く思われたいという自我を、そして優越感や劣等感を抱いているエゴを
全てを受け入れ抱きしめてあげることが出来るであろうか
そのエゴである私やあなたに愛という魂からの波動を分け与えることが出来るであろうか
その自分が偉くなりたい、そして尊敬されたい、満足し、到達し、偉大になりたいというエゴを
抱きしめることが出来るであろうか
自己関心というものは他人への無関心で溢れ、それ故に他人へのゴシップで一杯で、常に他人を非難し、批評し
それ故に他人を見る事の出来ないで、おのれ私と自分のことばかり気にしているエゴであるが
そのエゴに愛を与えることは出来るであろうか
その時、その愛を与えている高等思考とは
その他人に関心を抱き、自己関心から解放され、自分を忘れ、自分の達成や願望や、階位のことを全く気にかけずに
自己を注視し、自己を抱きしめているものとは、「私」のものであるのか、
そこには「私」はいないのではないのか
私を忘れている意識なのではないのか
その時、意識の座に有るのはエゴではない(意識の座とは正確には個人や人格ではなく全体性なのだ)
その意識の座に見られている高等思考はこの有機体の頭脳に出現している魂の反映なのだ
魂とは個人でもなく、人格でもない、私や他人ではない
それは私でもなくあなたでもなく魂なのである
だからこそそれはエゴを抱きしめ、エゴに愛を与え続けるのだ
エゴという自我を抱きしめている者とはエゴではない
それは全体性からの反映の意識であり高等思考と呼ばれているものだ
それが自我を照見し抱きしめるのだ
そしてそれが頭脳と云われている人類共通の意識に影響を与えることなのではないだろうか