あるがままを見る為には
あるがままを見るためには、私達としてはどうするのかという質問にミルダッドは的確に述べている
それは
「いかにして自らの眼にかけられたヴェールを脱ぐということだ」
(※私達が肉体の脳に入ったので五感という知覚を眼に被せられ、この五感の眼でみて感じているということだ)
「あなた方の眼は、あまりにも多くのヴェールで覆われている。あなた方が見るものはことごとく
ヴェールでしかない」
(※私達は肉体の神経や脳と繋がって、脳に起こっている思考や感情や記憶の反応、脳の二元認識と体験に
覆われてしまい、その結果、私達は個人や人格を作りだし、それを自分だと思い込んでしまっている)
「眼はヴェールを掛けることは出来てもヴェールを貫くことは出来ない」
「ヴェールを貫くためには、睫毛とまぶたと眉で翳った眼とは異なる眼が必要だ」
(※肉体の脳と繋がって、そこで得た肉体や他の幽体などの眼による知覚ではなくて、精妙身体によらない
直接の魂の知覚、魂の眼で見る事の必要を言っている)
「もし、事物を正しく見たいのなら、まず眼それ自身を正しく見るようにしなさい。
(※魂の眼でもって正しく見たいのであるなら、初めに、この目は非常に限定された肉体の五感による知覚であり
五感が分離しているので分離して見ており、決して魂の眼では見ていないことを知るべきだと言うこと)
眼を超えたあらゆる事物を見る為には、目で見るのではなくて眼を通じて見なければならない」
「正しく見つめ、正しく語ることにのみいそしめば、貴方は自分自身のみを見、自分自身のみを語るだろう
(※ここで言われている私とは、真の私であり、その真の私とはあなたであり、全体であり、すべてであり、それであ
り、有情無情を含めた私であり、すべての私だと言うこと)
何故ならば、あなた-見る者、語るものとしてのあなた−は、あらゆる言葉の中にあり、
あらゆる言葉を超えて在るのと同じように、
あらゆる事物の中に在り、あらゆる事物を超えて在るからだ」
「自己のヴェールを脱ぎ、自己の封印を解く鍵は、
あなたが唇の間に永遠に押しとどめている言葉である。
ミルダッドはそれを〈創造の言葉〉と呼ぶ」
「それは(私)であり、それは〈創造の言葉〉なのだから」
(※真我とは私であり、私という創造のコトバでもあり、それはI AM THAT I AMであり、
そのI AMは私という全ての無情有情の私そのものであるということ「私は在る」であり
「神聖なる真実の私」である)
「あなたの(私)とは、あなたの存在の意識に過ぎない、
音声を持たず肉体を持たない意識が、
(私)によって音声を持ち、肉体を持つようになる。
(※ここでの「あなたの(私)」のあなたとは真我のことで(私)とは魂の事だろう
観照者である魂の私が肉体の次元で松果体に焦点を合わせて降下したとき
自動的に肉体を自分だと信じている記憶である現在のパーソナリティー(魂の延長)が生じ
その現在の私が音声を持ち、肉体を持ち、仮の自由意志を与えられて、自分が行為していると
思い始めたと言うことであろうか?)
(私)とは、あなたの内にある、聞こえるようになった聞こえざるもので有り
見える様になった見えざるものだ」
(※ここでの(私)とは魂である観照者の私であり、またここであなたと言われているものは
真我のことを指しているように思われる)
「少し(私)を考えるだけで、あなたは頭の中に波打つ思考の海を創り出す、
その海は、同時に思考者であり思考であるあなたの(私)が創造したものだ。
(※「思考者であり思考であるあなた」とは誰だろうか?それはクリシュナムルティーを学んでいるものならば
「見るものは見られるものである」と分かる、それを直覚しているのは魂であり、魂は神そのものの部分だ
その真の行為者とは神であり、神我が「思考者であり思考である」という
わたしであろう。その「真我」が降下して観照者・魂としての(私)として顕現しているのである)
もしあなたの思考が突き刺し掻きむしるなら、
あなたの内なる(私)のみが棘、牙、鉤を思考に与えたのだと知りなさい」
「あなたがたが与えることが出来るものは、取り除くことも出来るのだとわきまえて貰いたい」
「おのおのの世界は一つの宇宙を形成している。
その宇宙は、同時に造るものであり、造られたものであるあなたの(私)が創造したものだ。
(※此処でも同じフレーズが出てくるが「造るものであり造られるものであるあなた」とは、「主体であり客体の私」
「見るものは見られるものである」のあなたであり、主体と客体の区別と分離が消滅している絶対主体の私である
非対象の私、真我のことを指しており、その真我が現象界に顕現されたのが魂の(私)であり
そして魂の私の延長が現在のパーソナリティーである。従って現在のパーソナリティーの思考と感情と創造とは
魂の私が創造したものと同じでもある)
若しあなたの宇宙に怪物がいるのなら、あなたの内なる(私)のみが、それを誕生させたのだと知りなさい。
あなたがたが創造する事が出来るものは、抹消できるのだとわきまえて貰いたい」
「〈私〉とは全ての事物がそこから流れ出し、すべての事物がそこへと還る水源である。
水源のありようと流れの有り様は同じである」
「それゆえに、あなたの意識の有り様と、あなたの私の有り様は同じである。
若し(私)が一つならばあなたの世界は一つである。」
「若し私が多数ならばあなたの世界は多数である。その時、あなたはあなたの自己自身と、神の無窮の
宇宙に住まうあらゆる被造物と、果てしなく戦うことになる」
(※私が多くのレベルに分かれて複層多数であるのなら、世界は対象世界として分離し客体世界として認識されて
しまう。が、私である個我であり現在のパーソナリティーであるエーテル複体とサイコ・ノエティック体とが、魂の私と
同じ波長に成長し、魂の私に磁石のように引き寄せられて魂の私に並列し一体となったとき、私は多数ではなくな
って純粋主体として、ただ一つの単独の全体である私と整合して、世界と自己は全くの一つになるのだろう)
「(私)とはあなたの生命の中心である。
あなたの全世界を形作る事物は、そこから放射され、そこへと収束する。
もし(私)が安定していれば、あなたの世界は安定している。
その時には天の力も地の力もあなたを、右にも左にも揺さぶることは出来ない」
「あなたの世界は、おのれ自身に対立して分割された世界である。
というのも、
あなたの内なる私が余りにも分割されているのだから」
「あなたは分離できぬものを分離しようとする実りのない労働に改めて取りかかる。
そこから自分自身であると信じるものと、自分自身とは異なるものであると信じるものの間を分かつ
楔を作ろうと望む」
「ミルダッドはあなた方自身と-あらゆる人々と−内なる私の裂け目をつなぎ合わせて貰いたい」
「あなた方は、それぞれの(私)を中心としながら、同時に一つの《私》を中心としている−
それがまさに神の単一なる《私》だ」
(※上にあるが如く下にもあり、衛星が惑星を中心にして周り、惑星は太陽を中心にして周り、太陽は銀河中央を
中心にして周り、銀河団はこの宇宙周期の中心を中心にして回っているが、全宇宙は一つの身体であり
宇宙全体が素粒子の中に在り、何も分離しておらず、神の単一の《私》そのものである、と言われている)
「神を感じ、神を考え、神を語るためには《私》という《コトバ》を発する以上のことは必要ない」
「それ故に《私》は神の言葉なのだ。それゆえ《私》は《コトバ》なのだ」
(※『初めにコトバありき、コトバは神(ロゴス)なりき』、と書かれている様に、神はロゴスでもあり
コトバであるのであるということ)
「時間と空間のうちに偶発事はない。如何なる事にも間違わず、如何なるものをも見逃さない
(全能の意志)によってあらゆる出来事は定められている」
(※全能の意志がカルマを司り、愛であり全ては一つであるが故に、自他は一つであるが故に他に為したこと
は自分に為したことであるから出来事は正確に起こってくるのである)
「そしてあなたにかって言ったし、今も言うのだ。
如何に呼吸するか、如何に喋るか、何を願い、何を思い、何を行うかに注意せよと。
(※ここでの注意とは留意又は観照であり、呼吸を、行為を、思考を、願望の裏の動機を、感情を
人格を、パーソナリティーを、何の非難も逃避も判断もなく沈黙の中で観照すると言うことである)
なぜならあなたの意志は、
一つ一つの息、一つ一つのコトバ、一つ一つの願い、一つ一つの行為の中までにも隠されているからだ。
そしてあなたに隠されているものは、(全能の意志)には常に露わだ」
「あらゆる人、あらゆるものに愛を見て愛を与えなさい。その愛によってのみ、あなたのヴェールは取り払われ
(理解)があなたの心の内に兆すだろう。そうして初めてあなたの意志は(全能の意志)の
驚くべき神秘に入門を許される。」
(※此処でミルダッドは私達の眼を覆っているヴェールを取り払うということが起こるのは、前段で述べている観照
だけではなくて、神への愛と信頼と確信、それが必要であり、その神への愛が転じてあらゆる人やあらゆるものに
愛を見て、愛を与えることであるという最大の秘蹟、秘儀を述べている。眼を覆っているヴェールが取り払われる
という奇跡が起こるのは、あらゆる人とあらゆるものに愛を与えることだけが条件なのである)
「万物への意識を成長させて初めてあなたは、
自らのうちにある万物の意志や、万物のうちにあるあなたの意志を意識できるようになる。
万物のうちにあるあなたの意志と、あなたのうちにある万物の意志を意識するようになって
初めてあなたは(全能の意志)の神秘を知る事が出来る。」
(※愛のよって愛の中に新しく生まれ変わり、魂の内奥に整列した私達の新しい意識と意志の状態を述べている)
(※ここで述べられているわたしとは真我であると同時に現在のパーソナリティーであるようにも思われる、それは
ミルダッドに於いては分離していない聖なる真我の観点から語っているからであろう
それにひきかえ括弧付きの(私)とは魂である目撃者・観照者・ハイヤーセルフのことを指しているのであろう)