私達を乞食にさせてはならない



これは上江洲義秀先生の言葉だが意味深長である

もう一度、マインドの働きを考察してみよう



マインドは私を作りそして自己関心を生み出す、自己感覚と分離された自我を生み出す

マインドは対象たる相手があると思って価値基準や評価を始める

マインドは自分が分離している個人だと思い込み、獲得しようとする、悟りを、永遠を、愛を、それらは既に在るというのに

マインドは既に真我は全てであり全てが真我であるのに持とうとする

マインドは真我は既に神そのものであるのに、神を対象に、分離の対象にして、神を内と外に求めようとする

マインドは既に真我は成就しているのに悟りを得よう、解脱を成就しようとする

マインドは既に真我は全ての全てであり、全体性であり全知全能で知識を超えた智慧そのものであるのに真理を知ろうとする

マインドは既に真我は獲得しようとする全ての能力とパワーとエネルギーを持っているのに獲得しようと努力する

マインドは既に真我は到達しているのに、開花しているのに到達しよう開花しようと努力する


だから

ニサルガダッタ・マハラジはいう

「何にも成るな、何も知るな、何も持つな」だ、これが唯一生きる価値ある生き方、唯一価値ある生き方、
唯一手にする価値ある幸福なのだ。



だから
私達をマインドの働きに貶めてはならない
私達をマインドの奴隷にしてはならない
私達は既に成就している、神そのものなのだ
と上江洲義秀先生は言う

私達を乞食にしてはいけない………
私達に餌をブル下げてマインドの領域に曳きづり込んではならない

私達は騙されてはならない
マインドに騙されてはならない
私達は悟るのではない既に悟っており、気づきという段階の意識レベルなのだ、
ただ眠って夢を見ているのだと

そしてクリシュナムルティーはいう
「良くなることは良きことの否定である」
BECOMINGはBEINGの否定であると
良くなろうとする動きこそマインドの働きであると


良くなろう、覚醒しようとすること自体、悟ろうとすること自体がマインドの働きであり
覚醒への妨害、悟りの妨害である

覚醒とは、悟りとは夢からさめることではないだろうか
既に覚醒していた、既に悟っていた、そして既に気づきという非分離性、非二元性の宇宙意識であった、神の意識であった
私達はマインドの意識存在ではなく気づきという真我の意識であったことに思い出すことではないだろうか

だからマインドの働きから離れよう
私達がするべき事など何もない
私達が出来ることなど何もない

観照者の完璧な空の空間の中でそれらのマインドの動きと働きから離れて行くがままに為させよう
それらのマインドは流れては消えていく
私達は限りない大空の空の空間なのだ
観照者なのだから
マインドの働きに心奪われることなく
その空と無のなかに留まろう


私達は空であり
無である




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