私が苦しむ人なのだ!
ニサルガダッタ・マハラジは「 I AM THAT」の中で次のように言っている
質問者:彼が苦しみから解放されるにはどうすべきでしょうか?
(と言うような質問にたいして)
ニサルガダッタ・マハラジ:
またしてもあなたは外側から見ている
私は内側から見ているのだ
私は苦しむ人を見てはいない
私が苦しむ人なのだ!
私は彼を内面から知っている
そして自発的に努力を要求せずに正しい事をするのだ
何の規則にも従わずに、なんの規則も求めない
誠実に、そして抵抗できないまま
生命の流れと共に在るのだ
ニサルガダッタ・マハラジが見ている世界をここでハッキリと述べて下さっていて大変に有り難い
彼は、「私やあなたの現在のパーソナリティー」を彼の外側にある客体・対象としては見ておらず
私やあなたの内側からの「私それ自体」として、苦しみ喜び悩みを共に味わい見ているのだ
そして私達に叱責して下さっている
−あなた達は学んでいるにもかかわらず
対象として自分と他人を、そして「自分と他人の現在のパーソナリティー」を、自分ではない対象
客体(観察されるもの)として見てしまっていると−
だから、この決して対象ではない「私とあなたという現在のパーソナリティー」に対して、
良くなるように、改善するように、より美しく、より良くなるように改善しようと求めたり
判断したり、評価したり、非難したり、逃避しようとしたりして働きかけてしまってはならないと
それらのあなたとは私自身なのだ、だからあなたを内面から知っているのだと
にもかかわらず
私達は「私と言い続けている様々な自己と他己というあなた」をそのあなた自身の内側から私としてみる代わりに
対象の客体として見てしまっていると
それゆえに決して自分やあなたを対象として分離して見てはいけない、私の内奥から私そのものとして
「苦しんでいる私を見ている私」こそが「私に見られている苦しんでいる私」であることを忘れないように
しなさいといわれているのだ
ニサルガダッタ・マハラジはそれらの私やあなたをこの私やあなた自身の内奥の内側から自分自身として
私達を知っていると仰っておられるのだ
これはすばらしいことではないか
これはクリシュナムルティーの言う最初に「自由で在る」から出発しなさい、と同じだろう
「現在のパーソナリティーの私として」からではなく「世界は私である」「私は世界である」の私から出発するのだと
・・・では此処で言われている自由とは何だろうか、
自由ではないときだけ選択ということがある、と言われている以上は、
選択がなく、あるがままがあるがままにあるとき、そこに自由が在ると教えられている
(ラメッシの言うように自由意志がなく、起こるように起きていることを見ているとき、そこに自由が在る、
と言うことだろう)
「自由」は自由を求めている思考の状態にはなく、自由意志がないことを見ていることが自由であり
思考が自由を求めている限りはそこには自由はなく思考しかないと言うことだろう
解放とか解脱とか思考停止とか真我実現とかを願い求めること自体が思考の働きであり、それが思考の
範疇であり、時間の罠に嵌っているという事であるということだろう
この解放とか真我実現とか思考停止とか解脱を願う主体こそ思考自体だと言うことだろう
解放とか解脱とか悟りとか真我実現とかは「自由ではない思考」が願い思っていることではないだろうか
そしてその思考と言う自我の欲するその願いに対して方法や目標やその為の道を指し示し導くことが
ビジネスであり取引なのだと思う、
願いと欲望に応えることは願いと欲望の存在していない自由なる次元へではなくて、
願いと欲望の渦巻く低次霊的次元へと私達を引きづり込むことであり
私達を願望を成就させることでマインドの低次次元に束縛するのである
この願いを叶えることが私達を霊的な物乞いの乞食にさせ堕落させるのだ
これには金銭が絡むこともあるし、全く金銭が絡まないこともあるだろうが、いずれにしてもビジネスであること
には変わらない、霊的なビジネスなのだ
手段を求め、方法を求め、到ることを欲し、利用しようとするから利用されてしまうのだ
自由で在り、既に自由であるなら決して解脱とか真我実現を考えたり願ったりしないであろうからだ
私達が解放を願い、真我実現を願うのは
自由という気づきの領域・次元のなかには到ることも、実現することも、願うこともないということを
理解しないからだろう
これはラマナ・マハリシの「私は在る、瞑想をしてはならない、既に私は在る、在ろうとしてはならない、
在ることについて考えてはいけない」と同じである
クリシュナムルティーを学ぶ友人が最初に躓くのは、私達は最初に自由から出発すべきであるのに
時間と思考の虜となって、既に自由であるにも関わらず思考と自我を自分だと思い込み自由と
解放に到る方法を求めてしまうからである
クリシュナムルティーの言うような「思考なしで自己を観察する」のは無理で不可能だと思考し
そのように観察する事は無理だと、そのように思考してしまうことで、私達は自己観察を放棄してしまう
私達が思考する如くに私達の思考は働き実現化するのだ
私達は「自己観察は不可能だと思考が思考している」ということを観察するのだ、非難無く、判断なく、
逃避することなく
けれども私達は安易に解決の方法を求め、その見る事の出来る目を求めて○○に縋り付き、懇願
することによって、霊眼という偽物の目を得ることによって満足し、自らを乞食にしてしまうのである
その懇願それに対して
その求めに応じて出現し方法と手段と道を提示するのは似て非なるものである、それは思考次元のものである
その○○は聖なるものではない、何故ならその切なる願いを叶えることによって私達を搾取してしまうからだ
私達を虜にしてしまう
この到るための方法と手段と道こそが思考の領域のものであり、思考が考えていることだ
この方法と道こそが〜になるという時間であるマインドが提示していることなのである
既にラマナ・マハリシやクリシュナムルティーのいうように「在る」であるのなら、そして自由で有り、気づきで
あり目が醒めているのなら
どうして方法と手段と道を求めたりするのだろうか
自分が自己観察出来ないと思っているのは誰か?それは思考ではないだろうか
だからこそ言われるのだ、間違っている思考と同一化してはならないと