真理を求める必要はない 光を求める必要はない
神を求める必要はない
それらは最初から既に厳然としてここにあるのだ
だから
虚偽を見つけなさい
虚偽を虚偽と見るのだ 虚偽を虚偽と見られたとき 虚偽が虚偽であると本当に見切られたとき
それが真理だ
招きもしないのに そこに真理が顕現している
真理とは 虚偽を虚偽と見切ったときなのだ
このように
クリシュナムルティーもニサルガダッタ・マハラジもいう
虚偽とは 私そのものだ 偽我を偽我とみ見切ったときこそ
そこは真我だ
このマインドをマインドであると完全に見切ったとき そこにマインではない「・・・」がある
それは言葉に出来ないし 私には認識不能だ また知覚し認識できるものは虚偽だ
この世界を現象界であり、私達の認識を写しているだけで 私達はあるがままを見ているのでない と
完全に見切ったとき、そのとき現象界ではない
非分離、非二元性の世界が在るのだとおもう
虚偽を虚偽と見よう マインドが創りだした物を
マインドが創りだした物だと見ることが出来るようになろう
時間と空間、宇宙はマインドが作り出したのではないか その、この
二元性そのものは二元性なのではないか 分離性をこの分離性を見よう この私を見よう この見ている私を見よう
見ている「私は誰か」
本当に正直に 逃げないで
私は誰か
誰かと尋ねているのは
誰か
『或るお方からのご意見』
…反対のアプローチもありますね
虚偽を見るな、えぐるな、探るな
神だけを想い、光だけを見つめ、愛だけを求めるがいい
さすればすべての虚偽はきえさるであろう
上記ご意見に対する
『私の意見・感想』
そう思います
それは、その人の歩んできた道によると思います
私の方向として
この方法はクリシュナムルティーやニサルガダッタ・マハラジの道ですけど
ご指摘のそのような
道・方法は
勿論素晴らしい道として
在ることは充分に存じております
神道やクリヤヨガの一部もそのようです
私の場合は、否定的接近が自分に合っているので、そのことを中心に探求を進めているのですが
否定的接近にせよ、肯定的接近にせよ、目指すところは同じで
最後は、真我への固い確信と真我への愛が、そして献身の有無が決め手になるようです
頭中心のマインド偏重の私には、
ニサルガダッタ・マハラジのようなその方法が良いのですけど、
煎じ詰めれば、結局は同じ
真我への絶対の帰依と、真我への愛が必須条件であり
その真我だけがその虚偽を晴らすであろうということが分かってくる思います
虚偽は虚偽では晴らせないのです
虚偽では虚偽を見ることも出来ないと思います
虚偽は真我の愛の光だけが晴らせると思います
だからこそ
真我を本当に実現した上江洲先生の様な方が
必要なのです
彼の愛が我々の虚偽を晴らしてくれるのです
または
真我を実現したグルの愛が私たちの観照者の覆いを取り除いてくださるのです
又は
高次の真我が直接、それが働き、虚偽を晴らしてくださるのです
ですから
ご指摘の通り
「虚偽を見るな、えぐるな、探るな
神だけを想い、光だけを見つめ、愛だけを求めるがいい
さすればすべての虚偽はきえさるであろう」
も結局は同じです
同じ真我へと導くのであろうと
私は思います
|
|