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自我の終焉


自我の終焉を願っている者とは誰か

それは「自我が終焉していないもの」すなわち自我である

自我が「自我の終焉」をしていないと認識しており、その自我が自我の終焉を願っている

しかしその自我というものが願っている「自我の終焉」とは

現在の自我の意識状態よりも、もっと高い意識状態を獲得する為に自らの終焉を願っていることであり

願っていること自体がその自我という自他の分離、主客の分離に基づいており

その願っている本体である自我こそが分離という思考である限りは、また苦しみの連続が生まれる


此処で言う自我が望んでいるこの自我の終焉とは、勿論、真我の実現のことであるが

自我はそれをはき違えており

自我による、自我のための、自我の最高自己実現の事を「自我の終焉=真我実現」と思い込んでいる

それは自我の終焉ではなくて自我の限りなき拡大のことである

実は自我が望んでいるのは自我の終焉ではなく、自我の存続であり,自我の最高度の能力の拡大なのである


本当に自我が終焉するとは、思考が停止し、自他と主客の分離が無くなり、未知である「真我」が誕生することである

完全なる主体と客体の分離の停止であり、その認識と経験と体験と記憶の終焉である

その自我・思考の停止と、思考の終焉が、即ち「真の私ではないものである自我」の終焉であり、

それが真我の誕生である



自我とは思考であり、思考とは「私」と意識されている「偽の主体である創られた質料」の意識である

その思考が自他の分離、内部と外部の分離を引き起こし、その自己意識のことを自我という

それらの分離は時間と空間という錯覚から生み出されているのである



思考が停止し、終演することがそのまま未知なるものが生まれていることであると言われている

では自我の終焉を願っていると思い込み、瞑想をしていると思いこんでいる者が自我自身・思考であるとしたら

おなじく思考の停止を実践しているもの自体が思考であり、その思考には思考を停止させることは出来ない

のではないだろうか


何故ならその思考を停止させようとしていることが思考の動きであり、そのことで思考が更に生き続けているからである

それと全く同じように

自我を終焉させようとして努力しているものも、

この努力している自分が真我に向かっていると思い込んでいる者も自我そのものである

その自我を終焉させようとして努力しているもの自体が自我であり、それをしていることが自我の働きである以上


そこにはまだ自我が生きている



自我の終焉を願い、努力している者も、「我は~也」と観念で思い込んで観念の中で溺れている者も

同じく思考である自我である、

それは共に思考の作用であり、自我の動きそのものである

それは幼稚な思考形態であるのではないか


その自我の範疇・次元では知識が、体験が、経験が見られる対象として体験し知覚されることであろうけど、

全ては見るものと見られるものとに分離しており、それを見て体験している自我がそこにまだいる、思考がそこに

まだいる以上は、それは自我の範疇、マインドの次元であって

「見るものは見られるものである」ではない、そこは実在である非対象である私の次元では決してない


思考での高度の形態とはなにか、自我での最高の動きは何なのか

それは「自我・私とは結局は何もしていないのである。何も出来ないのである」

ということを自覚して、何もしないこと、動かないことであるのではないか、全く静寂になることではないか



自我はその自我の終焉を願っている者それ自体が自我であることを自我自身が認識したとき何も出来ないのでは

ないだろうか

(即ち自我がより高い認識とより広い知覚や経験を得て支配し、拡大することを願って自分自身の消滅を願っている
のである、それは自我自身の巧妙なる保身術である。自我が存続を図って自分を欺しているのである)


より良きことを願い、真我の実現と、自我からの解脱を願って瞑想をしている者は自我であり、それは

より良きことである「未知なる私」、「見るものは見られるものである」である私を否定する邪悪な者である

それが真我の到達を願い、「我は~成」として瞑想しているのである

それは恐らくその思考の力で、成長して大きなパワーを得て、自身の意識が拡大し、自分が世界であるとまで

錯覚することであろう

しかし、それは邪悪な力である、

何故なら、そこでは自他が分離しており、時間が停止していないからである、そこでは思考が生きているからである

見るものと見られるものが分離しているからである

最高度に自我が拡大し、自と他が分離している憎しみと悲しみに溢れた二元性である世界が現出したのである




私達が目指している方向性はそこではない

私達は本当の意味で自我の終焉を志向しているからだ



自我には自我の終焉を引き起こすことは出来ない

何故なら、そこには思考と言う自我が生きているからである

自我には自我を終焉させることは出来ない

思考には思考を終了させる事は出来ない、

思考には一時的にある程度の思考停止は出来ても完全に思考を絶滅させることは出来ない



自我の終焉(即ち思考の停止)と、真我の覚醒へと至る方法と道は存在していないという事実を認識して

完全に真我に委ねることである。

しかし、それを待つことも邪悪なことである、それは自我が実現を目指して策略しているからである

何かになろうとしている分離している意識がそこにいる、それは全く愛であるものではない

そこには自我がぎらついた目をして待機している、真我と言う獲物を待っている


だからこそ私達思考である自我はただただ放棄して、完全に全体なる一つの意識に全託して

何もしないことである

何故なら何かをすること自体が自我の働きであるからである

だから何をもすることは出来ないし、何をもしていないことに気がつくべきである


それはたとえれば

丁度、後ろ向きに計り知れない深遠の崖っぷちの際にたっているのと同じである

もし私が幸運ならば

未知なる私が、この自我である私を押し倒して下さり自我の終焉という深淵へと放り込まれることであろう

未知なる私が未知である深遠にこの私である自我を投げ込んで下さることであろう

であるので、ただただ私には

そこの崖っぷちに後ろ向きに立つ事しかできない

それが「自我である私」の唯一の自由という範疇内でのできることである

即ちやってくる思考や思考する人に「反応している私・自我の態度」だけが私という自我に出来る唯一の自由である

自我の態度だけが私達に出来る可動範囲である

そこから先、虎の大きく開けた口にくわえられた自我の頭をがぶりと閉じるのは

まさに真我であるグルの恩寵でしかないのである、

真正なるグルこそが真の私である

真我であり私自身であるグル、至高である、未知なる全体であるお方の

恩寵だけがその決定権を握っているのである

何故なら

私達は自我であり結果でしかないからである

そして、けれども、それにもかかわらず、だからこそ

真の私は真正のグルとして内側に今此処に在ると言われている