目が醒めた日中の・夢見の・そして熟睡の意識
真の私の意識とは完全に熟睡していて、夢も見ておらず、刺激に対しても全く反応しないところの、熟睡中の「意識」である
と教えられている
日中での外界と内界とを認識し、記憶と感覚器官から反応して、自分が思考し、自分が行為していると思っているこの意識とは
真の私の意識ではないと
また、日中と同じように
夢の中で(死後も同様に)色々と体験し、経験し、喜び、悲しみ、苦しみ、悩み、恐れ、願い、感じ、考え、探求し、信じ、理解し、多くを
知っている私も真の私の意識ではないと、
それはスクリーンに投影されている映像である私であり、その映像の私が生きているのであって、
それは映像の主人公であり本当の私が生きているのではないと、
その映像の中の主人公の私とは夢の中での私の意識であり、それはまた日中の私の意識でもあって本当の私の意識ではないと
その夢(又はこの日中の三次元界)の中で恐れて、苦しんで、祈って、願って、努力して、行為して、知覚して、体験している私とは、
本当の私に押しつけられているスクリーン上の映像であってスクリーンそのものである私の意識ではないと
顕在意識・潜在意識や、無意識とは夢であるマインドの意識であって、夢である思考から醒めた私の意識ではないと
もし私の意識であるのなら、その意識の中には過去現在未来があるはずがない、
またそこには如何なる質料であっても身体意識があるはずがない、如何なる霊的な身体であっても、
例え無限小にせよ無限大にせよ、自分以外の他と比較することのできる対象としての何らかの身体を持っているはずがない、
制約のない自由そのもの、自由なる意識そのもので有るはずである、それが私であろう
そこは、如何なる身体でもない自由なる無制約の「意識そのもの」であるから、対象としての自分や他人がいるはずがない、
「見るものは見られるものである」であるから、その意識の中には見る者も見られる対象が有るはずがない
ただ一つなる意識、分離できない意識で在る事だろう
そしてもし本当の私の意識であるのなら、思考やマインドはなく、従って考えるはずがない、想像している筈がない、記憶している
はずがない、知識であるはずがない、感情や願望や想いや、諸身体に属する感覚や知覚があるはずがない
もしも本当の私の意識であるなら、思考を使いことなく一瞬にして全てを理解し、全てが分かってしまうはずである、
時間に属していないからである
全体であるので愛以外であるはずがない、許し以外であるはずがない、喜び以外であるはずがない、知識ではない叡智以外で
有るはずがない、
だから本当のわたしの意識であるなら、知るのではなく全てが分かってしまうのである、愛の中で・・・一瞬にして
本当の私であるならいのちそのものであり、全てを生かし、蘇らせることであろう、一命一体だからだ
本当の私であるのなら、私のいる場所と時間は特定の場所と特定の時間であるはずがない、全ての時空の座標軸だからだ
本当の私とはあらゆる時であり、あらゆる場所であり、そしてあらゆるものであるから、時間軸と空間軸に固定されるはずもなく、
またその意識の中にはその軸自身・次元もあるはずがない、時空を超越しているのだから
時間と空間が有るはずがない、もし時間と空間が有るならば、そのことで真の私ではないことを証明している
だから、顕在意識でのこの自分のこの思考や願望やマインドも、そのマインドの記憶も分離であり一命一体の意識ではない、
見る者と見られるものの分離を前提にしているこの日中の意識も、夢を見ている意識も、また無意識も本当の私の意識ではない、
と覚者方は教えて下さっているのだ
熟睡中の抓っても目を覚まさず、夢さえ見ないその「意識」こそ本当の私の意識であると
そしてその完全に熟睡している意識という真の私の意識が、この顕在意識の中で花開くこと
私である無思考と非対象の意識が無意識と、夢見ている意識と、そしてこの日中の意識とに繋がることがヨーガであると言われる
これを逆に言うと
日中の意識が、広がり、純化され整って、夢の中にも浸透し、無意識にも浸透し、そして本当の私の意識である完全熟睡の
意識にも浸透して、その真の私の意識と結ばれ、繋がっていく、拡がっていくことだとも
真の私の意識は今此処に在るのだが、現在意識とただ繋がっていないだけなのだと
その真の私の意識は、日中の意識、夢の中の意識、無意識の基盤であり、それらを支えており、ここにいま存在していると
しかしなのに、それと繋がることを妨害しているものがある
それが、この日中の意識であるもの、即ち思考であり、感情であり、感覚であり、願うことであり、欲することであり
記憶であり、知覚であり、想像であり、知識であり、体験であり、経験であり、認識であり、行為していると思っている私である、
それは思考でしかないのに内部と外部を観察していると思っている私であり、
自分も他人も、人格個人として別々に存在していると思っている私であり
自他に分離している私であり、
内部と外部に分裂し、対象を持っている主体と対象である客体との分離をしている私である
この二元分離の私こそが日中や夢見の(顕在や潜在という)意識と同じく本当の私の意識と繋がることを妨害しているものである
そして、それなのにこの二元分離の意識が本当の自分と繋がることを願っていると自己欺瞞に囚われている
けれどこの真我との融合を願っている二元分離の私が活動している限り、本当の私と繋がることはできない
全ての二元分離の私の活動や働きが完全に停止し、終焉することこそが本当の私と繋がることだからだ
沈黙と静寂だけが私達を本当の私に、本当の私の意識へと導いて下さると言われている
クリシュナムルティーは生は死であると言われている、生きながらにして死ななければ生きることは出来ないと言われている
(これは肉体や諸身体のことではなく、物質界や霊幽界での諸身体の死ではなくて、本当の意味での「死」のことである)
だから私達は何もすることは出来ないし、何をもしていない、身体も世界もそれを投影している自我もプログラムの結果である
私達が何かをすることや何かをしている、何かを考えることは、考えていること、何かを願うこととは
「全ては私がしていると主張している想念である私」がそう信じ込んでいる錯覚であると、
実際は聖なる根源が全てを起こしていると
この「私と言う想念」とは、全体であるにも関わらず、分離していると思い込んだ錯覚の意識であり、
その錯覚した意識が脳と繋がり、身体と同一化したこの「錯覚の意識の私」は「自分は個人だ」とさらに思い込んだのだ
それが行為していると思う私、観察していると思っている私、思考していると思っている私、私が感じていると思っている私、
私が願っていると思っている私などであり
それが根本の分離意識であるもの、私が全体から分離している個であるという「錯覚の第一想念の私」から起きているからである
けれどもその「錯覚している第一想念の私」と言うものも真我から生まれているとラマナ・マハリシは言う
そういうことであるので、その観念である私が働いている限りは(作動している限りは)
何をしても間違っている、何をしなくても間違っている、何かをしよとすることも間違っているし、何かをしないでいようとするも
間違っている、思考が働いている限りは間違っているからだ
考えること、感じる事、思う事、願うこと、信じること、思う事、見ている事、聞いていることも間違っている
生きていると思うこと、生きていないと思うことも、間違っている、
マインド自体が間違っているからだ、それらは本当の私の意識ではない、
しかし、けれどもそれらの偽の私の意識も「熟睡中の本当の私の意識」があるから機能している事が出来ている、という
この私ではない分離している無意識も、夢見意識も、日中の意識もそれが在るので有ることが出来ている、という
真我が支えているから機能していると
それらのマインドと言われている思考である分離している意識の知覚・認識している内部と外部は本当の私の意識ではない。
偽の私の知覚・認識している世界や宇宙は本当の私の世界や宇宙ではない
というのも、その嘘の意識では私と別個に世界と宇宙を認識しているからだ、内部と外部を分離していると認識しているからだ
二元分離の意識の特長であるところの認識とは、「主体が認識をし、対象は認識される」からだ、
このような認識・体験と言うものが偽の意識の特長だ
それらのマインド・思考とは真の私から生まれてきた「分離した私と言う一次観念」から二次派生していると教えられている
だから「見るものは見られるものである」ではないその分離した経験や体験や認識とは、
その「分離している私」と言う観念が持っている意識の内容である
私ではないマインドの認識形式こそが時間と空間が有るとの錯覚であり、見る者と見られるものの、自分と宇宙と、内部と外部の、
自と他が分離しているという錯覚である
私達の中に微塵でも対象として認識したり、思考が働いていたり、私以外の貴方や、私以外のそれが有ることを感じたり
自己と云う分離した自己感覚が残存している限りは、その意識は本当の私の意識ではない、質料の意識である
二元性と言われているその私ではない「私と言う観念」の特徴とは
到ろうとする、到達しようとする、神と合一しようとする、自我を終焉させようとする、真我実現しようとする、真理を探求しようとする、
知っている、時間内のあらゆることを知っている、何かをしようとする、何かをしていると思っている、神を求めていると思っている
外部に分離した世界を認識し(世界が私ではなく)、外部に分離した宇宙(宇宙がわたしではなく)を認識し、
出来事と運命とカルマに振り回され、身体を持って輪廻転生している主人公と自分を同一視してしまっている意識だ、
それが真の私ではない「私という観念」の特徴であると覚者方は言われている
私とは本当の私であり、「私は在る」であると、言われる
それはこの夢見、日中の、そして個体又は集合の二元の分離した私ではないと