グルジェフはいう

T:真に生きるためには死ななければならない

(私達は生きていない。ロボットとして完全に操り人形として、人生劇場の舞台の出演者である台本に従って、生きていると思っている。
 行為者でもなく自由もない、演じさせられているだけだ。生きていないのだ。盲目の悲しみと苦悩に気づいていないのだ。 
     真の私に気づいていないのだ。ワサナと人格と転生を続けている魂が消滅しなければ生きてはいないのだ。
輪廻転生は苦悩なのだ幻なのだ。真我は転生していない。)


U:死ぬ為には。自我の終焉の為には。自分が消滅するには真我の目覚が・覚醒が起こらなければならない

(肉体の死、そして精妙体の死は死ではない、生まれる前に両親を選んだ者、生まれる前に人生の設計図を決めたものは真我ではない。真我は生まれることはない、真我は死ぬことはない、転生していない、人格でもない、転生を支えている魂でもない)


V:真我の目覚・覚醒が起こるためには自己想起というワークを常時、継続しなければならない

中間地点は自己想起である、自己留意ともいう、真我に無限なるわたしを想起するのだ
自己想起の自己とは真我を指している
自己観察の自己とはマインドを指す、即ち真の私でないものである
真我は待っている、自己想起を、真我を思い起こすことを待っている
自己想起は瞑想である、この瞑想は継続して常時行われる必要がある。
友達や肉親と話しているときもそれは行われる
真の私・真我を思い出すこと
真の私・真我に留意すること
真の私・真我・無限なる私に気づきを向けること
それこそ真の自己観察の次に待っているワークである
「私は誰かである」

W:自己想起が起こるためには自己観察のワークを続けなければならない

この自己観察は無数のレベルがある
自分の自己観察は一体どのレベルであるかを分かる必要がある

そして自己観察のキーワードは「見るものは見られるものである」である

「観察者は観察される者」であり
「知覚するものは知覚されるもの」であり
「体験するものは体験されるもの」であり
「認識するものは認識されるもの」である
これが自己観察の最初のスタート地点である
「観察者は観察される者」とは別々だとおもう限り
「知覚するものは知覚されるもの」とは別々だとおもう限り
「体験するものは体験されるもの」とは別々だとおもう限り
「認識するものは認識されるもの」とは別々だとおもう限り

それは
スタート地点に立っていない

自己観察はまだ始まっていない




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