親愛なる私の友人へ

そして、これから述べることはあなたにとってはお節介かもしれませんが、私にとっては「自己からの束縛」を解放するワークはこれしかないことを50年近く集中しての(「真実を求めて」)その結果の結論なのでこのお節介爺のいうことを聞いてください

                                                                                                               

また、何故いまのこの時期に、あなたへ話すかと言えば、私と同じように多くの方々がその「自己からの解放」を必要としているからです、アセンションを間近に控えた今だからこそ、このワークが必要と思います。

いま現在では、あなたの現在意識の中では、それの必要性を感じておられないかもしれません

しかし、私は、より人間としての喜びと平安に暮らせるためには、たとえその解放を求めているいないにかかわらず、このことは、この時期の人類全体にとって必要なことであることを痛感しているからこそ、この文章を書いている次第です

世界を愛し、他人を愛し、家族を愛するためには、まず自分自身を愛することが必要です、けれども、現在の「わたしたちの鏡」が意識の夾雑物に覆われている現状では

「私達は自分を愛することが出来ません、自分自身から解放されるまでは」

そういうことで、自分を愛せない人の、他人に対する「愛」は愛ではありません、他人を愛することが出来るためには、自分を愛することが出来ることが、その大前提だということです

私があなたへ送るこの文章の目的は、私をもふくめ、畢竟自分が自分を愛することが出来るようになることだと感じているからです

私の願いとは自分自身を愛することが出来るようになることです

それこそ社会に、家庭に愛を実現するからです

そして、そのことが多くの解放をもたらすでしょう

それは自分自身からの解放です

自分自身の束縛からの解放です

 

そしてこのことを理解するためには、まず初めに自分自身が自分自身に束縛されているのだという状態を理解しなければなりません

私という想念に「意識の鏡」が覆われていることを理解する必要があります

 

あまりにも私たちの目は「外側」を向いているため、自分の「内側」の事に殆ど目をやっていない状況なのです

ニュースにしても、新聞にしても、テレビにしても、教育にしても、この社会にしても、そしてこの人生全般の通念に於いても(この一生という短い生涯を通じて)私たちは殆ど内部を凝視したことがありません

また仮に自己の内側を見ているのだといっても、その内部を見ているという状態は、記憶(頭脳を経由した五感、と、そして、その五感に基づいた頭脳が創り出した記憶)が反応している状態のことだということに留意すべきだと思われます

私たちの通常の内部を見ているとは、

単に、意識に補足されているマインド(頭脳経由の記憶や又潜在意識から時々やってくるもの)であるものを知覚していることにすぎません

即ち「記憶からの反応」であるマインドに、私たちの意識の焦点が合って、いるにすぎない状態を、そのことを「内部を観察している」のだと錯覚しているのです、

それは内側を見ているのではありません

それは内面を凝視しているのではありません

 

私たちがこの

「@    自分自身から解放され」→

「A    自己を愛することが出来るようになり」→そして、その結果

「B    人を愛する事が出来るようになった」→とき、その事自体が

「C    多くの問題を解消することが出来て→、

「D    自分の内部にも、そして外部にも調和と喜びと秩序がもたらされること」     

を私は発見したからです

 

私は62歳になりました、そしてやっと今このことの重要性に気がつき、この「自分を愛することが出来るよう」になるワークを始めるスタート地点に来ました

そういうことであるので、同じ人類として、私の親しい非常に有能な友人であるあなたに、お節介とは十分承知の上でお話ししております

 

では、又話は戻りまして、自己の内面の意識の件についてです

心理学は通常次のように意識を分類しております

T:現在意識

U:現在意識の奥にある潜在意識(これは無意識ともよばれている)

V:集合意識(これはDNAに保存されている人類全体としての意識である)

 

そして通常の心理学では、記述されていない意識があります

W:これらの意識を支えている「意識のそのもの

  (しかしこれは上記のT〜Vの意識にとっては、この「意識の座」そのものは全く知覚したり、認識したり、想像したりが出来ない意識であり、人類には未知なる領域の意識であるからです、通常はこの意識の座のことを「鏡」、とか「スクリーン」とか「観照者」とか言われている意識のことです。

このことは、逆に言うと知覚できるもの、認識できるもの、伝達できるもの、推測や想像したり出来るものはすべては、このWの意識ではないと言えます、霊界や未来や過去の透視等はT〜Vのレベルのものです)

X:ごく限られた人類によって到達された「気づき」と言われる非二元性の意識

  (しかし、これこそが上記の全ての意識の根底になっているので、これがあるので意識界全体が機能していると言えます)

というわけで

この基本的な意識の構造を理解しない限り、私たちは前に進めませんので、面白くないかもしれませんが、話を聞いてください

私達の人生は長いようで非常に短いのです

ですので、通常の私達の人生では、生まれてから死亡するまでに、経験する事が出来る意識とは、目が覚めている状態の日中の意識、そして夢を見ている意識、そして熟睡している意識であり、これらはTとUだけなのです

この中だけが私たちの人生であり、私たち人類の意識レベルなのです

この意識レベルの中身とは、私達の所謂、通常の言うところの「心」と言われているレベルです、マインドレベルです、上からは下が見えるように、極わずかのこのレベルを超越した方々が、このレベルのことを正鵠に描写し告知できるのです

そして、私たちにとっても静かにただ一人きりで、その「心・マインド」を凝視したとき、静寂と沈黙の中に、その「心・マインド」というものの中身が見えてくることができます

その「心・マインド」とは、難しく言うと

「わたし」という中核の意識が、その知覚や体験の対象を認識している状態のことです

であるので、この現在の人類の意識レベルである「心」というものは二元性で成り立っているのです

その二元性を具体的に言うと「私−貴方・対象」「主体−客体」「時間認識」「空間認識」「自他の分離」「内部と外部の分離」から成り立っています、これが「人類の頭脳」を経由した意識(心というレベル)の大根本です

そしてこの大根本の意識である「心」の中身を情緒的に捉え説明すると「苦しみ」、「悲しみ」、「恐怖」、「不安」、「暴力」等です、そして、それから逃避する手段として「愛している」「家族の喜び」「神への信仰」「祈り」などがあるのです、

しかし

この「心」の中身は、いくら覆い隠し、見えないようにしてもその実体は看破されないかぎりは、私たち自身であり、苦しみや恐怖や暴力そのものなのです

神やワンネスや一体性などの概念や言葉、又はそれらの信仰や体験は単なる「心・マインド」の領域内であり、そのマインドの投影であり、それら「私」という心自身からの逃避現象に他なりません

 

私達はいま、真剣に何が本当の自分なのかを突き詰めようとしています

意識(心という次元)の深層に至り、この肉体の頭脳が生み出した「私という概念」に照明を当てようとしています

何故なら、

私たちは「自分を真に愛することが出来るよう」になりたいからです、

それだけが人々に恩恵と調和と秩序をもたらすことが分かるからです

そういうことなので翻って、それでは、まず初めに前述のUの潜在意識というものに意識の焦点を当ててみたいと思います

この現在意識にとっての無意識と言える潜在意識の領域に光を当てることなくしては、私たちは奥に進むことが出来ません、その潜在意識に支配されるからです

私達は現在の人類のように潜在意識の奴隷であることを拒絶したいのです

そういうことなので

この潜在意識の段階・領域への探査(思考を動かさずに留意すること)は飛ばすことが出来ません

一歩一歩奥に進んで行かなくてならないからです、

「光は闇がないときに初めから存在しているからです」

「闇が光を求めることは闇の働きであって、闇を闇と見ることが光の働きであり、それが闇を消えることを意味している」、とそのように言われております

それで、この線でこの進んでいくことを、「自己発見」、または「自己観察」、又は「自己省察」、と言い

そして更に次の「意識の座」の意識の領域に進んでいくワークのことを「自己想起」または「自己留意」等とも言われています

いずれにしてもこのワークを始める前に、そのワークの教師が必要です

その教師こそが「関係性」なのです

この関係性が潜在意識領域に潜んでいる自己を暴露するのです

「関係性」とは自己発見の旅の間の、自分を導き指導してくださる、教師なのです

この教師無しには、私たちはこのワークを出来ませんから、この「関係性」というものが如何に大切かは理解できます

昔のことわざの一つにこういうものがあります

「立ち向かう人の心は鏡なり己が姿を写してやみん」

これは正しく、私たちの教師の働きを叙述しています

それは、こういうことです

妻は夫がその鏡となります

夫にはその妻が鏡です

子供は親を映しています

親の姿とは子供自身です

会社の上司は自分を映しています

会社の部下は自分を映しています

隣の隣人は自分を映しています

全ての認識できる他人の心の内面とは、実は自己を映したものです、それは鏡なのです

丁度毎朝、鏡に向かって整えるように、私たちも心の世界で鏡を与えられています、それが自分の前に現れているその相手の方の心なのです

その相手とは、本当のことをいうと、実は自分自身なのです

これが真実です

しかし此処でその鏡をどうするか、

どのようにしたら正しく鏡を見ることが出来るかという、この次の問題があるのです

その自分を映す鏡を見ることを欲せずに、離婚などして、その鏡と言う関係性から逃げることも、それは出来るでしょう

またその鏡を見ることがあまりにも、つらいので会社を転々と替えることも可能でしょう、そして自己からの逃避の為に、酒を飲んだり、神を信仰することも一つの手段でしょう

しかし、そうしかたらといっても、結局は、また同じように自己を映す鏡というものは必ずついてきます、そして離婚しても又いつかは同じような状況を迎えます、

会社を替えても必ず同じような問題に遭遇します、

何故なら「立ち向かう人の心」は自分を映しているのですから、自分を変えなければ、いつまで経っても結局は、状況は同じなのです

相手は自分を写している鏡なのです

 

此処で私たちは、このことを素直に「その通り」とかいって単に受け入れるのではなく、真に自分のハートで理解しなければ、先にいくことができません

 

自己観察を開始するのです

食べているときも、人と話をしているときも、歩いているときも、自分の反応に「気がついて」いるのです、観察している自分や、観察されている自分と同一化しないのです

それには、まずその自分の「反応」とそれを観察している自分を分離して

その「反応」に巻き込まれないようにするのです

或る状況で、

ある人が自分に何かを言ったり、したときの

自分の「反応」を観察するのです

そして観察している「自分」も同時にただ留意(非難や分析などの思考から離れて)するのです

そして自分のことを非難したり、判断したりせず、好嫌いや善悪という基準なしに、反応を起こしている自分を見るのです

自分を「思考」を除外してただ見るのです

初めはうまくいかなかったり、自己同一化したり、自己逃避したりするかもしれませんが、ともかくその、関係性を鏡として自分自身を見るのです、

自分を見ている自己をも見るのです、

非難や目的や動機を排除してただ見るのです

見ている自分は、見られている自分であることを受動的に凝視するのです、

意識の中の観察される対象としての自分と、観察している自分は一つであり、その両方の自分を分離することなく、思考を排除して留意するのです

観察されている、その対象であるマインドが観察者を分離しているのです、創り出しているのです

ですので

そして、そのマインドである自分の言うことに、ただただ耳を傾けるのです、傾聴するのです

このことは常日頃からの努力が必要ですが

その「観察者は観察されるものである」を忘れて、その内部で把握された感情や思考や想念と同一化しないようにしましょう

その対象の内部の想念を自分自身そのものであることに留意しつつ、両方をただ見つめるだけで良いのです、ただ耳を傾けるだけで良いのです

それがスタート地点なのですから

その潜在意識からの反応は、きっと苦しいものです、その意識体や想念は嫌で身震いを起こすものでしょう、まさに正視出来ないものです、

それが私たちの潜在意識層に溜まっているものでもあり、それが私たちの日常の意識の底辺に隠れて、私たちの行動や言動を支配しているのです

そして、それが観察者である私たちなのです、対象は自分です、その自分とは観察されているもの、即ちマインドです、真の私ではありません

私たちは観察者と観察される自分とが分離していると錯覚しているんです

そしてその錯覚を錯覚と気がつくことが解放をもたらす、と言われているのです

ですから、その潜在意識層からの解放が必ず初めに必要なのです

 

頑張りましょう、

 

一緒に頑張りましょう

その潜在意識層を顕在化する作業は

また自己を自己に対して露見する事でもあります

また、あるがままの自己に自己が対峙することでもあります

あのスターウォーズの中で主人公がマスターから受けた指導のように

私たちは関係性という鏡を通じて、露見される自己を発見していくのです

このことこそがワークと言われるものです、自己発見の厳しき旅に出るのです

これしか社会に貢献できる、道は無いのですから

社会を良くし、会社を良くし、家庭を良くし、そして自分を良くする道は、「自己を正見するこのワーク」しか有りません

この自分自身という門を通じて、真の自己解放への道は開かれているのです、関係性を鏡として

しかし、あのスターウォーズでは触れることがなかったことがあります

それは、この「鏡そのものを磨く」と言うことです

鏡を磨くとは一体どういうことでしょうか

鏡を磨くと言うことは、

この「自己に観察されている内部にある潜在意識層の恐怖やその意識体の意識及び不安や絶望や恐怖などは、それらの対象自体(客体)そのものがその観察しているものの主体自体である」

と言うことを理解することなのです

ここのところは非常に難しいです、

私が50年かかってやっと分かったことなので、いきなり理解することが難しいと思います

勿論私自身もこのワークの最初のレベルにいるのです、出発点にいるのです

あなたと全くレベルは同じなのです

ですので、安心して下さい

さて話は戻りますが

その内部の潜在意識層の意識を見る話です

これはもの凄い恐怖や不安や苦悩に直面することをも意味しております、

当然、通常の私たちは、この潜在意識層の想念やその意識の実体に触れたときは逃げようとするでしょう、またこれを避けることでしょう、若しくは自己同一化という方法で巧妙に逃避するか、信仰や祈りなどで自分を変えようとする努力をすることでしょう

しかしそれでは真に見ることは出来ないのです、それは逃避なのです

それらの信仰や祈りや自己を改善しようとする努力というものは、実は巧妙な、自己からの逃避の手段なのです

ですので、これらの自分が逃避している事実を認識することが「正見する」ことの始まりなのだと思います

 

このことを反対側から言うと

実は、私達は自分を憎んでいるのです、深層の潜在意識ではそうなのです

ですので、自分を憎んでいるので、それを外界に投影して、全てのものを無意識下でもって憎んでいるのです、そしてそれを愛しているなどと、言葉では言うのです

なので実際は、そういうことなので

まず私は自分を憎んでいるという、この事実から、動かないことが肝要です

では、この自分を憎んでいる自分とは一体誰だろうか

また

この状況を見ている私は誰だろう

 

此処で私達は非常に神経を鋭敏にして、明快な理性で対応しなければなりません

 

自分が憎んでいること、を、見ている自分とは、その憎しみの一部分ではないだろうか

このことを「正見」することが、それからの解放ではないでしょうか

その自分の潜在意識層の諸々の想念を見ている私は、その想念の一部分であることを正見したときが、その潜在意識層の諸々の想念からの解放なのではないでしょうか

この非常に複雑な意識構造の話で恐縮ですが

自分の内部に発見され、押し寄せてくるそれらの恐怖などを、じっと見ている観察者

 

その自己の内部の恐怖を観察している観察者こそが、その恐怖の一部分なのです

 

そしてこれを正視すること、それ自体がその自己からの解放です、心というマインドからの解放であると私は確信しています

このことは、自分の内部にあるエレメンタリーや想念体を外部にあるものとして、憎むべき敵や悪魔のように思って戦うことは、そのエレメンタルや自我(エゴ)たちに力を与え永続させてしまいます、今ここで、私たちが行おうとしていることは、そういうことでは全くなくて、そのエレメンタルを見ている者こそがエレメンタルそのものであり、それを正見ことこそがそのエレメンタル(意識の座を覆っている)を解消する道であるということです

しかし、これは非常に難しいことです

ただ単に自分を良くしようとして、教会に通ったり、有る組織に所属して、何かを礼拝したり、神を信仰して自分を変えようとしても、それは自己欺瞞です、マインドという心の罠にはまり込むことです、また内部の自我(エゴ)と戦ったり、良くしようとして自己改善しようとすることも、マインドの罠です

何故ならその自分を変えようとしている主体の自己こそ、その変えようとしている対象の自己そのものであるからです、

同じ一つの「心マインド」が分離して客体と主体に分離を起こしている事なのです

ですので、この方法では自己を本当には改善することは出来ないのです

自己変革は「あるがままの自己をあるがままに正しく正見したとき」にのみ可能です

そしてこの自己変革無くしては、人類に未来はありません

真の自己自身はタマネギのように多くの皮に覆われています

それは順次に、顕在意識、潜在意識、集合意識と降りていき、最後の皮を剥ききったとき

そこは、自己が存在していない意識、大空の空そのものです、それこそが真の私です

即ちそれこそがクリシュナムルティーやラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジ達がいる領域です、彼らが指し示しているところです

多くの覚者達の非二元性、非分離性、全体性である「気づき」の領域の意識と言われているところです

多くの覚者のかたがたはそれを「空」とよびました

即ち、真の私は空そのものであると言うことでしょうか

またその意識状態は、この通常の意識(マインド)の概念や思考では到達することができません、測ることも出来ません

逆に言えば、私たちの通常の意識や今流行の霊界やら宇宙やらで通用している二元性の意識で叙述できるもの、伝達可能なもの、言葉で表現できるものはその「気づき」の意識状態ではないということです。

 

それこそ私たちにとって未知なるものなのです

私たちという既知なる意識のなかの思考や想像や創造、知識や知覚や体験はすべて未知なる「意識」ではありません

 

そしてその未知なるものが私たちのこのすべての意識を支えているのです

 

その私に知覚されないものこそが「真の私」です

 

 

この私の意見を此処まで聞いてくださって、本当に有り難うございます

この私たちのワークをすることによって私たちは

私たちの心の作用である

利益を求めること

御利益を求めること

目的を持つこと

動機を持つこと

安定を求めること

進歩を求めること

未来と過去を思うこと

将来に夢を抱くこと                    

改善をして、良くなることを求めること

欲望の成就を求めることなどが、

その「心・マインド」の本質そのものであることを知ることになります

そしてこの心・意識がこの人類の世界を創り出したのです

 

それこそがこの私です

 

そしてこの私たちがいま終焉を迎えようとしているのです

「意識の座」からマインドという霧が消えなければ、真実は見えません

 

   

ただ一人で真実を求め歩むもの

あらゆる宗教を拒絶し、信念や信仰を拒絶し

虚偽を虚偽と見ていこうと努力しているもの

 

あなたの友人である行雲流水より