偽我と自我は全く別物
バーナデットロバーツは「神はいずこに」の中で自我と偽りの自己(偽我)との違いについて注釈でこのように語っている
『自我である自己は、自分がその自我で生きている−または自分がそれである−ときには知る事が出来ず、あとで振り
返って初めて、そうだったのかと知る事が出来るだけなのです。
自我で生きているときには、自我こそ、私達が知っている最も深い自己です。それは、表面的な「偽りの自己」ではあり
ません。
自我が脱落するとき、私達は恐ろしい闇夜を経験するのは、こういう理由によるものです。
たいしたことのないものが脱落したのなら、これほど精神全体が激しく動揺し、変化し、再調整を強いられることはなかっ
たでしょう。
これとは対照的に偽りの自己は決して脱落することはなく、ただ〔仮の表面的なものとして〕あるがままに認識されるだ
けです。
ですから、自我と「偽りの自己」とは全く別物なのです。
そのようにきとんと区別しなかったことが、真の観想の旅についての数多の誤解を生む原因となってきました。』・・と
そしてまた、これとおなじことをラメッシ・バルセカールは自我と偽我との関連について新刊「誰がかまうもんか」で
「この偽我という私とは、全くもって自我ではなくて、脳の条件付けに従ってプログラム・DNAに書かれているように展開する
肉体・出来事・恐れ・喜び・運命等及び思考と感情のことであり、それは肉体精神機構と呼称されているまったく私ではないもの」
という言いことを、以下のように丁寧に説明してくれている
ニーナ:そして、精神障害者とか殺人者の行く末は、私達の規制によって、刑務所に入れられたり、死刑を言い渡されたりしますが
それもその(肉体精神機構の)運命にあることなのですか?
ラメッシ:それがその肉体精神機構の運命です。それがまさに、私のいっていることです。そしてその行為の結果も
又運命です。
ブルース:ラメッシ、私は運命という観念について質問があります。
あなたが運命について言及するとき、それは肉体精神機構の運命のことを言っているのですか?
ラメッシ:はい、まったくそうです!
シン:それはエゴの運命を含むのか、あるいは、それはエゴの運命に類似しているものなのですか?
ラメッシ:違います
エゴはそれとは何の関係もありません。
それは肉体精神機構の運命です。
運命とは常に肉体精神機構のものです。
ハッキリ言って、エゴは存在しません!。エゴには運命はありません。
ブレンダン:それでは、なぜ運命があるのがエゴではないのですか!
この肉体精神機構は単なる機械装置です・・・・か
ラメッシ:はいそうです。ですから肉体精神機構に起こる事は、この肉体精神機構の運命です。
人生でその肉体精神機構に何が起ころうと、それは肉体精神機構にのみ起こるのであって、
エゴに起こるわけではありません。
エゴは催眠によって「それが私に起こっている」と思うのです。
ブレンダン:わたしはあなたが、心(マインド)とエゴが同義語だと言ったのだと思いました。
ラメッシ:はい!考える心とエゴは同じものです。
ラメッシ:脳は自力では動けない肉体精神機構の一部であり、それは何も創造する事が出来ません。
それはただ受信して、(条件付けられたようにしか受信し送信できない)反応することだけしかできません、それは反
応器官の一つの装置です
マルクス:では、この「肉体−精神」は、受け取って行為しているわけですね?
ラメッシ:その通りです
ですから私が言いたいのは、思考がやってきて、脳がその思考に反応し、その反応こそ、マルクスが「自分の」
反応と呼んでいるものです。
つまりマルクスが何かを見たり聞いたりしてして、脳がそれに反応し、その反応が、マルクスが「自分の」反応と
呼んでいるものなのです。でもマルクスには、何が起こるかコントロールすることが出来ません。
マルクスはどんな思考が沸き起こるかもコントロール出来ません。マルクスは、これから自分が何を見たり聞いた
り、味わったりするのかコントロールできません。それゆえ、マルクスはどんな思考が沸き起こるか、何を見るのか
コントロールできません。
脳はマルクスがコントロール出来ない何かに対して反応するわけですが、脳はどうやって反応するのでしょうか?
プログラミング−遺伝子プラス条件付け−に従ってです。
マルクス、もしあなたがパソコンをもっていて、何かを入力するとすれば、出力はどうなるでしょうか?
まさにそれがプログラムされているとおりに出力する以外に、どんなことが出来るでしょうか?
そして誰がパソコンに入力するのでしょうか?パソコンではありません。あなたが入力するのです。
そのようにプログラムされた道具、すなわちコンピュータである肉体精神機構に関しては、神が入力しています。
彼があなたに何かを聞かせたり、見せたりします。彼が思考を送ります。これが入力です。
-中略−
ラメッシ:賢者に沸き起こった怒りと、普通の人に沸き起こった怒りの違いは何でしょうか?
怒りは聞いたり見たりしたことに脳が反応するために、沸き起こります。
脳が怒りを生み出すのであって、エゴではありません。
ではどこでエゴが介入するのでしょうか?
エゴは脳の反応に反応します。
それが巻き込まれることです。
賢者の場合、脳の反応として怒りが沸き起こりますが、賢者はそのまま成り行きに任せて観照します。
その怒りは、行為という結果になるかもしれません。賢者は怒りが沸き起こり、行為となるのを見守ります。
怒ったのは「私」で、「私」がこの行為を行ったとは言いません。
この基本的な反応(肉体精神機構の反応)に引き続いて起こる反応がエゴ(の反応であり)、巻き込まれること
です。
最初の反応は脳の物理的な反応でそのあと引き続いて起こる反応がエゴ(からの反応)です。
普通の人の場合、彼は、
「『私』は怒った、『私』は怒らないようになんとかしなければならない。『私』は怒らない方法を見つけなければな
らない。
『私』は自分をコントロールしなければならない」などと言うことでしょう。
これは延々と続きます。
賢者の場合は(肉体精神機構)に怒りはわき起こり、そして巻き込まれることはなく、成り行きに任せるのです。
恐れもまた、沸き起こるものです。
例えば二人の普通の人がいます。一人に恐れがわき起こり、もう一人には恐れが沸き起こりません。恐れが沸き
起こるのは
エゴとは関係ありません。
しかしエゴは恐れに反応するのです。
その恐れにしても怒りにしても、普通の人は、「『私』は恐れていた、『私』は怖くなった、『私』も恐れない友人のよう
になれたらいいのになぁ」などと言います。
ですからプログラミングを受け入れることが出来ない故に、巻き込まれることが起こるのです。
-中略−
そのように、基本的な反応と、(それに引き続いて)エゴによる反応が起こります。
賢者の場合も、基本的な反応は起こります。なぜなら、それは脳にプログラムされた反応だからです。
しかしエゴがないので、エゴによる「巻き込まれること」がありません。
基本的な反応に対するエゴの反応がないのです。
以上の様にラメッシ・バルセカールは的確に、恐れや怒りや不安や欲望や出来事とは、このプログラムされている肉体精神機構に
起きていることであり、自我は全く関わっていないということを脳の機能から説明し
この肉体精神機構も、そして自我も神という根源が作った「聖なる催眠」であり、聖なる根源の自由意志こそが自我の自由意志を
使って聖なる演劇を上演されているのだと指摘されております、
この肉体精神機構も自我もただ起きていることであるのだと言われております
それにも関わらず私達にはこの識別が出来ずに、思考や感情や欲望を「自分の思考」「自分の感情」と誤って考えているのだと
言われております
翻って、かくいう私も日常生活の中ではひょっとしたことから、この個的な肉体精神機構に起こる思考や感情を、またある時は
恐れとか欲望も自分というエゴの恐れや欲望と同一視してしまい、それに対して良くならなくては、改良しなくては
等というエゴからの反応を起こしてしまい、この聖なる根源から起こっている恐れや不安を拒絶して、それを受容せずに
自分に対しても、また人に対しても、これらからの解放を求めていたことの過ちをこのラメッシによって指摘されることは有り難い
ことです
何事も、なにも「求めない」という姿勢が、このカラクリに気がついたものの態度だと、つくづく感じます
なにかを「求めること」は聖なる催眠を受容しないと言うことであり、この聖なる催眠に対して自我が反応してしまったことを証明
しております
なにも「求めないこと」はこの聖なる出来事、聖なる催眠を受け入れることであり、この反応に対して反応しないことが、即ち
なにも「求めないこと」であり、エゴによる「巻き込み」に巻き込まれないことだと思われます