正しい行い、正しい思い、八正道
A子さん:聖者のなかで或る聖者は正しい行い、正しい思い、八正道について述べておられるけど
このことで今日は、あなたの意見を聞かせて貰いたいけど、いかがかしら?
Bさん :僕もこの点では何んか正しい行いや正しい思いと言われると
奥歯に物が挟まったような、むずがゆいような何とも言えないもやもやが残っているんだが・・・・・
A子さん:それは、当然私も同じよ
正しい行い、正しい思いとは、正しい行い、正しい思いであって
正しい事を行おうとすることではないわ、
その正しい行いを行うとは、正しい人がする事であって
その正しい行いをしている人は、勿論のことだけど
自分が正しい行いをしているという自覚はしていないのよね、もし自分は正しい行いをしているという
ことを意識していたら、それは正しい行いではないわよね、これは愛についても全く同じで
愛の中には愛だけがあって愛している私と言う自覚があったら勿論それは愛ではないわよね
だから正しくない状態の人が正しい行いを行おうとすることは、中身は腐っているのに上辺を飾ることだわ
正しい行いは、正しい人が行うことだわ、そしてそれをその人は行っていないと言うことを知っているのよ
正しくない人が正しい行いの真似をして、その振りをする事は例え出来ても
それは正しい行いではないと思うのよ、偽善に過ぎないわ
だから聖者によって言われているその正しい行いとは、「正しい行いをしようと」努力しているのではなくて、
正しい行いを行っている意識次元の状態のことを指しているのだと思うわ
正しい行いをしようと努力している状態は正しくない状態で有るからよね
だからU先生が正しい行いをしなさいと言われるとき
それは正しく思い行うことが出来る段階の人にたいして話しているのよ、きっと
Bさん :僕もそう思うよ、だからU先生は正しい行いを、行うことができる正しい人にたいして
話しているんだよね、きっと
A子さん:この件については間接的なことだけど
U先生から昨日お話をお伺いすることが出来たのよ、そこで私なりの聞いたことをお話ししたいわ
Bさん :よろしくお願い申し上げます、教えて下さい!!
A子さん:ちょ、ちょっと待って、私は教えることなんか出来ないし、伝えることも出来ないわ、それにひょっとすると間違
った受け取り方をしているかもしれないけど、先生と話してとても勉強になったのでお話しするわ
Bさん :なんてU先生に聞いたの
A子さん:わたしはね、余りU先生は思考や気づきのことを言わないから、真我と思考と気づきの関係の事を聞いたのよ
「U先生・・私には多くの賢者の言われていることから推測して
思考の根源にたどりつき、その思考の源泉、思考が生じるその根源こそが、真我とよばれているもの
だと思われますが、その思考の根源に到ること、それが重要なことだと思っています、が如何でしょうか」
とねお尋ねしたのよ
Bさん :なるほどA子さんは、ラマナ・マハリシなどのいう思考の源泉、思考の根源に到ったとき、思考は存在し
ていないと言われていることを、U先生にも確認したかったわけなんだね
A子さん:私はクリシュナムルティー達の言う自己認識を通じてのみ、即ちこの自己認識を深めていく過程の中にのみ
沈黙が訪れてくる可能性が有ると思っているのよ
そしてその沈黙の中にのみ未知なるものが顕現すると言われているのよ
そういうことなのでU先生に自己認識、即ち思考の発生してくる根源についてお伺いしてみたというわけよ
Bさん :そうか、そしてU先生はなんて言われたの
A子さん:うまく、そのとおりには言えないけど、かいつまんで言うとこういう事だわ
「あなたが言っている思考とは思考ではありません
それは思考ではなくて
単なる「条件づけられたものの記憶」からの「条件反射」にすぎません
通常人類が思考していると思っているのは、思考すらでもなくて
条件付けられている記憶からの条件反射に過ぎません
瞑想の過程でこの条件付けが静かになることは、確かにある意味では沈黙と言えるかもしれません
が充分ではありません
本当の沈黙とは、この思考の根源に到ったとき、訪れる思考のない状態です」と
Bさん :驚いたね、まるでその言葉はまさにクリシュナムルティーが話しているようだな〜
ふ〜ん、U先生の今までの使われている語彙からは想像も出来ないよね
それで、U先生はその思考があるのかな
A子さん:私はそこでさらに聞いたのよ、「先生には思考が有りますか?」と
そうしたらU先生は「私には思考がありません、無思考です」といわれたのよ
Bさん : そ〜か〜!!
A子さん:そこで私はねU先生が言われた思考とは?一体なんなのかを自分なりに考えてみたのよ
ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジが悟った後も肉体を使用し思考を使っていたでしょう
そのことから考えると、U先生が指摘されているように、通常の人類が思考と考えているものは
全くもって思考なのではなくて、単に条件付けられている記憶からの条件反射でしかないということ
ということよね、それは人格という自我からの反応よね、それとは違ってここで
U先生が言う思考とは、ラメッシなどがいわれている通常の思考ではないワーキングマインド、
自我に染まっていない思考であるワーキングマインドであるということが分かるのね
けれどもこれは思考を超越している気づきではなくてその前の段階にあるものと想うのよ
あのBさんの傾倒しているラメッシなどは、この思考の事をワーキングマインドと言って、思考ではある
けれど、自我に属さない思考と定義しているわよね
U先生はこのワーキングマインドのことを思考と言っていると思うわ、明らかに自我である記憶とは区別して
・・・
と言うことから推測できることは、よく講話会などで、U先生が、私達に努力しなさいと、八正道を
奨めているのは、この自我という記憶からの条件反射の疑似主体に対してではなくて、思考することのでき
るワーキングマインドに対してであると言うことだと私は解釈したのよ
U先生が見ている見地は私たちと異なっているのよ、U先生の立っているポイントがあまりにも高いのだわ
U先生が私達に努力しなさい!正しく愛深くありなさい!と語りかけているのは「記憶の蓄積という意識もどき
・自我」へではなくて現象界に降りてきて迷ってしまっている魂へであるとおもうわよ
その魂の意識に対してU先生は語りかけていたのね・・・・・
それはとりもなおさず、U先生のいわれた「純粋思考」という意識に対して語りかけていたのね
Bさん :そうかあ〜、なるほど!!
U先生の立っている場所が、あまりにも僕たちと違いすぎるので、僕たちが誤解していたんだね
僕はいま君から聞いていて
こういう具合にU先生が仰っていることを簡単に纏めたんだ、間違っているかもしれないけどね
U先生が語りかけておられる(私達である)この魂が迷ってしまっているのは、この人類の頭脳という
受信器を経由して送られてくるあまりにも荒く低い波動であるものと、そしてその荒く低い波動が蓄積して
いる「記憶の条件反応」を自分だと思い込んでしまった結果でもあるということなんだよね
脳は意識や感情や思考の主体ではなくて、単なる受信器であり、記憶が使っている一部分なんだ
魂が頭脳経由でやってきているマインドの条件付けを自分の思考だ、自分の意識だと勘違い
したんだ、このことを詳しくいうと
この条件付けられている頭脳という受信器に送られてきているあまりにも粗く低次な「思考もどき」と、その
「思考もどき」の記憶からの条件反射をそのまま魂が受け取って自己同一化してしまったんだよね
この「思考もどき」とは観察者であり、その観察者が観察されるものと一つなのに、対象として観察している
ことをしているんだよね、観察されているものが観察者である思考もどきなんだよね
「この思考もどき」とは絶望と恐怖そのものであり、この恐怖と絶望が自らを分離して観察者・自我を生み出して
自分自身である絶望と恐怖から逃げようと、この文明と文化が始まったんだよ
けれどもU先生が言う「現象界でこの肉体精神機構と一緒に転生させられている魂」とは決して観察者や
観察されるものではないんだと思うよ、それはクリシュナムルティー的に言えば「非常に鋭敏で受動的な
自己凝視」そのものなんだよね、魂こそがこの受動的な「観る者と観られる者とに分離しない」自己凝視なんだ
そしてU先生はこの自己凝視である「鏡としての魂」にたいして語りかけておられるんだよね
だからこの「思考もどき・自我」とは決して私ではないんだよ、これは絶望というマインドであって私自己と云う
意識を持っているものなんだ、これが頭脳に受信され頭脳にやってきて、神経系統に棲み着いて感覚を支配
しているんだ、でも魂はそれを自分だと思い込んでしまうんだよね、それは頭脳がそのマインドというものを
受信するからね
だからこの頭脳という受信器自体の受け取る周波数を高くできるように、脳という受信器自体の再チューニング・
再調整が行われ、この受信器の構造をレベルアップする事ができれば、受信されるものも変わり、その結果として、
魂が受け取る頭脳からの「記憶の条件反応」もより、ぐっと高度のものに成るはずだよね
その段階に頭脳が進化すると言うことは、頭脳の条件付けから解放されると言うことでもあり、その条件付けから
解放された頭脳はこの三次元から、づっとより高次元のものに変わり始め、光子体というか、霊化した精妙なものに
脱皮していくのかもしれないね
そしてこの頭脳が条件付けを解かれレベルアップすればU先生がいう思考すらをこえた、さらの「気づき」
という無時間・非対象の意識に同調することが出来るかもしれないよね
ということは、より正確に言えば、「気づきである魂とは肉体精神機構のプログラムとは別に意識を持って思考
もしているし、思考も超えている」ということであり、「マインドの記憶に過ぎない条件反応を繰り返している観
察者である」自我ではない観照者として、魂はいまここで受動的に自己を凝視していると言うことなんだね
私達が自分だと考えているこの自我、自我といわれているこの頭脳にやってきているものとは「思考もどき」であり
それの記憶、そしてその条件反射として、その自我は考え、願い、思っているということだ
僕たちのこの意識の中身である絶望と恐怖であるマインドの記憶が如何に反応しているのかを「観察者は観察され
るものである」として受動的に凝視する事が自分の性分に合っている人とそうでない人がいるから、その人が
それはどの登り口を選ぶかは、その魂の傾向にも因るんだよね
U先生はどちからかというとこの「観察者は観察されるもの」を受動的に凝視するのではなくて、その凝視して
いる魂に直接意識の焦点を充てる道なんだよね
これはどちらかというとクリシュナムルティーの傾向よりプンジャジの傾向に近いのかもしれないね
というのも「観察者は観察されるものである」ではないと思って自我を対象として観察している事は、危険なんだ
この観察者は観察されるものでないと信じて自我を観察した場合は自我が拡大し、この自我に栄養を与え
強化してしまうことにもなりかねないんだ
自我を観察している観察者が自我そのものなんだし、他人という対象を観察している私こそが観察されている
対象である他人なんだよね
非難し批判しているその自我も、他人のエゴを非難し批判している自我も、非難されている自分自身なんだ
なのでクリシュナムルティーは「見るものは見られるものである」と最後まで言い続けたんだよね
そういうことで私ではないこの肉体精神機構には焦点を充てずに(魂とは「プログラムされ映像である肉体精神
機構」ではなくその肉体精神機構とは別の意識系列に属する意識であると言うことであるから)直接、本当の
私に焦点を充てることも大切だよね
そしてこのわたしこそあるがままを受動的に自己凝視している「見るものは見られるものである」である私なんだ
魂なんだ
だからこういうことなので地球人類の通常の私達が考えている思考とは、じつは思考ですらなくて、単なる
「記憶からの条件反射」にしか過ぎないものであって、この人格や肉体が、即ち自我やワサナという肉体精神
機構が根源によってプログラムされて映像として映し出されているものであり、この虚構が「自分が人生を生き
ている」と思っているんだよね
A子さん:ここで大分私自身も整理しなくてはいけないようだわね、私達が、意識と一言にいっているなかには、大まかに
三つの流れが存在しているということね
★一つは、条件付けられている頭脳がその受信機能に従ってやってきている「思考もどき」で、しかしこれ
はプログラムが決めているように、頭脳によって受信され、やってきている「思考もどき」であるもの
即ち恐怖や絶望や不安や憎しみやなどであり一括してマインドと呼ばれているものね
★一つは、そのマインドという「思考もどき」が記憶となって蓄積し一つの固まりとなり、条件反応を起こす実体
これを通常は自我と呼んで、私だという自己感覚を持って「私は軽蔑された」「私は無視された」
「私は良くならなくては」などとおもい、やってきている恐怖などを自分とは別のものであると認識
している主体、しかし、これは全く主体などではなくて、U先生風にいえば思考ですらない単なる
記憶の条件反射にすぎないのよね、これが死後も生き続けて幽界で生活を行い、転生に際して
は、中有界で過去の記憶たちと待機して、次の転生に際してこの中から選ばれしワサナが新しい
肉体に入ることになるのものだわ
★もう一つは、魂といわれているもので、根源からこの現象界に降りてくるに際して、分魂、分霊を繰り返して
この肉体に焦点を合わしている高貴なる意識よね、けれど通常は自分がどこから来てどこに去るの
かをすっかり忘れはて、このプログラムを持つ肉体精神機構やそこにやってきている「思考もどき」
そしてその「思考もどき」の条件反射である自我のことを、自分と勘違いしているんだわ
この魂の根源こそがこの現象を現象たらしめている超絶した叡智であり法則なのねきっと
この現象界という映像を成り立たせている根源から出ているものがプログラムと言われているものを
書き込んでおり、この肉体精神機構にやってきているものと、この肉体精神機構とがプログラムを持って
或る人生を生きるように、根源が写しだし、投影しているのではないかしら
Bさん :ではこのプログラムというものは精神身体機構であり、そこに「思考もどき」とその「思考もどき」の記憶の
条件反射、を投影しているんだとしたら、だからU先生を始め覚者の方は私達は結果だと言うんだよね
結果である私達であるこの記憶の条件反射はプログラムの結果ではあるけど、この魂はプログラムには
縛られてはいないよね、この魂に繋がっている根源からの意識は自由そのものであり、行為そのもので
ありそれはプログラムではないよね
私達この魂にとってはプログラムとは動かせないんだろうか、プログラムから自由になる道はない
のだろうかねえ〜
A子さん:そこそこよ、U先生はプログラムさえも超えることが出来ると言われていたわ
Bさん :それは悟っていると、プログラムを変えることができるってこと?
A子さん:U先生は覚者とは思考のさらに奥の根源の意識(超絶意識)と直接に繋がっているのでこのブループ
リントというプログラム設計図を変えることが出来ると言うことでしたわ、これは驚くべき事ですよね
それを昨日は具体例を挙げて仰っておられたわ、実際に先生を訪問していた人物の設計図を見たところ
身の危険が迫っていたので、その具体的に起こるであろう出来事を変更させてしまったという事例のこ
となのよ、けれどもこの訪れていた人物も、魂の開花している人で自分のおおよそのプログラムを自分で
分かっていたらしいのよ
また、キリストに関しても言及されていたけど、私が推測するにキリストとはこの設計図の設計者の
根源から直接に来ている存在であり、全く、これらのプログラムには縛られてはいないということよね、
いやそれよりそうでなくてキリストとはこのプログラムの設計者である根源から直接にこの現象界
に顕現した超絶している絶対意識の存在であると言うようなことを言われておりましたのよ
従ってプログラムは全くキリストには関与できません、プログラムの根源の根源ですのでと・・・
キリストは自らがプログラムをそのよう書かれてこの世で磔になられたのではないでしょうかしら
真我実現された方々(その意識)はプログラムを自由に書き換え変更することが出来ると言うことだと思うわ
ここで今回私が、吃驚したのは上江洲義秀先生が設計図というような言葉で説明されていたことですわ
いままでになかったことですから
Bさん :う〜ん、そ〜か、僕のこの頭による理解では到底理解できず、誤解が関の山ともいうようなシステムのことを
自分なりに纏めてみると・・・
講習会などでU先生が私達に語りかけている八正道とはこの人類の「記憶の条件反射という自我」に対
してではなく現象界に降りてきて「プログラムであり、その結果である肉体精神機構」に接触した、この魂
にたいして語りかけられている事だったようですね
そして思考に関しては この有機体の「受信器である頭脳」を経由しての「ワーキングマインドではない
低次な思考」とその「ワーキングマインドではない低次な思考」の記憶の条件反応というものを受け取っ
ているのは「鏡である」魂で有り、その魂が受け取っている記憶とは纏めると以下のように思えますよね
■頭脳からの「低次な思考」は、プログラムに従ってその頭脳の条件付けを経て記憶として蓄積し
その記憶が条件反射を起こしているということ
この蓄積が個人であり、人格であり、個別性を持っている肉体を自分だと信じて継続を願
っている記憶即ちワサナであるということ、 この記憶からの条件反射を私達は通常「自分」
と思い、「自分の自由意志」と呼び、「自分の考え」「自分の人生」と呼んでいるにすぎない
ということ、しかしこれは意識でも思考ですらないものであり私を詐称していること、外部から
やってきている「絶望と恐怖と分離と時間であるもの」の記憶に過ぎないということ
■U先生が講話で語りかけているのは現象界に降りてきて、時間に巻き込まれ、頭脳と神経
組織を占有している「もの」に巻き込まれてしまっている魂にたいしてであり、この条件反射して
いる記憶に対してではないと言うこと
■頭脳が受信しているものとは、いまのところ頭脳の条件付けによってチューニングしているもので
しかないので(頭脳が封印されているので)・超越意識でもなく・気づきでもなく・思考というワー
キングマインドですらなく・「分離した自己感覚を持ち、絶望と恐怖と悲しみでしかない低次な思考」
を頭脳は同調し、その記憶が条件反射行動を起こしている、それが私達の人格であり個人であり
自己意識なのであると言うことだと推測されます
それらは畢竟、私ではなくて、この鏡である魂の私に映し出されているものではないかと・・・・
言葉では理解できないようなことをしかも全く体験していない僕が言うことですが
A子さん、この僕の考えはどうですか、どう思います
A子さん:それより疲れたわ、外に出て新鮮な空気でも吸ってこようっと
じゃあ又ね・・外に出て瞑想するわ