信頼



求めればもとめるほど、遠ざかってしまう

実現しようとすればするほど、実現から離れてしまう

なろとすればするほど、ならなくなる

真の私を求めるということは、この求めている私が、〈真の私を求めていると言うこと〉で真の私ではない

ということを示しており、その「真の私ではない」という状態を強めてしまう

真我実現しようとすることは、その真我実現しようとしている、ということでその求めている私とは真我では

ないことであり、その「私は真の私ではない」という状態を強めてしまう・・という結果を招く

真我になろうとすることは、なろうとすることで、「真我になろうとしている私」とは真我ではないことをあから

さまにしその「真我ではない私」という状態を強めてしまう


何故、求めて足掻くのか

何故、実現しようとして、努力するのか

何故、なろうとして、色々と行うのか・・それは誰がしているのか。それをしているのはどの私か?

真の私である私とは、既に真の私であり、改めて真の私になろう、となどするのだろうか?


求めれば求めるほど、実現しようとすればするほど、なろうとすればするほど真の私から

離れ遠ざかってしまう



再三言われているように、この現在のパーソナリティーである現在意識の私は

肉体と肉体の意識を私だと思ってしまっているし、

肉体の感覚や、頭脳の知覚と認識を自分の知覚や認識だと思い込んでいる、

記憶の反応を自分自身の思考や感情だと思い込んではいるけれども

それらは肉体の意識であり、条件付けられている頭脳の意識であり、記憶の反応の意識であって

現在のパーソナリティー自体のではない

現在のパーソナリティーの意識とは、肉体の意識と、頭脳の条件反応と、記憶の反応の意識が

混合しているのだ。ミルダッドの言う坩堝である

そして、この現在の私達である現在のパーソナリティーと魂とはしっかりと繋がっているのだと

それなのに現在のパーソナリティーの現在意識が搾少されているので、意識の座にその魂の意識が

浮上しないのである


けれども現在のパーソナリティーは魂と繋がっており、さらに、この魂の奥には真我が拡がっていると


自分である現在のパーソナリティーとは決して現在意識に意識されているものだけではない、

この現在のパーソナリティーの意識の基底では魂と繋がっている

そしてその魂の内奥では無限の真の私が拡がっている、と

・・・・このことへ、確たる確信と信頼があれば・・

求めようとしたり、実現しようとしたり、なろうとすることは最早しないであろう

なぜなら、「今此処あるがまま」においては、既に真我と繋がっているからであると


確信と信頼が大切である

この確信と信頼のことをミルダッドは信念と表現し、以下のように説明している



『「論理」の唯一の効用をまだ見いだしていないのか?

それは人間から「論理」を取り除いて「理解」へとつながる「信念」に導くことだ。』


『「論理」が成熟に達すると、それは自らの網の上で自らを絞め殺し、より深い知識である「信念」へと

変容する』


『「時間」の手に弄ばれる自己を、否定しなければならない。そのことによって「時間」の奇術を

逸れている「自己」を肯定することになる。』



『そう、自己を否定することは、「自己」を肯定すること。

変化に対して死ぬことは、不変なるものへと生まれ変わること。

多くのもの達は死ぬために生きている。生きるために死ぬものは幸いである』



『小川が海へと失われて自分が海であると気がつくことは、小川にとって損失だろうか?

人間が自分の個性を神の中に失うことは、

自分の影を失い、影無き自分の存在の本質をみいだすことでしかない』


『「死」があなたがたを「死」から救い出し、「生」があなたがたを「生」から解放するように

「時間」があなたがたを「時間」から解放する』






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