意識の座に出現している肉体精神機構(DNAプログラム)とその記憶(自我)の働き

A子さん:「Bさん、あなたはニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハリシ達の言葉を信じ込んで、私達人類とは個人だと信じるように源泉・設計者による
      DNAプログラムへの反応によって創り出された個人という人格即ち記憶という自我であり、自我それは意識の座という観照者に出現している映像だ
      と思い込んで、それをこのホームページで展開しているけど、それは見る角度によっては非常に危険だと思うわよ、特に若くて何も知らないで
      何も考えない子ども達にとって”行為は自我とは関係していない”などと言うことは若人がかえって自暴自棄になる可能性を招かないかしら?」
Bさん :「そうすることは出来ないよ、だってそうすること自体が行為なのであり思考であり、それらはプログラムによるもので自我の行為・思考というものは
      あり得ないからね、勿論感情や思考や出来事や運命やカルマも全てがプログラムによるもので個人とはその結果である概念にすぎないからだよ」
A子さん:「そういうことであるとするなら私達はプログラムの結果だから、恩寵がない限りどうすることも出来ないわ、だから映画を見たり私は好きなことをす
      るの、でもこれもプログラムなのかしらね〜」
Bさん :「言わせて戴けるなら今そう思っているのは誰なのかな〜、誰がそう思っているのかな?、思っているものが自我という思考の記憶である限り
      その主体と言われているものは客体を持っているので、”わたし”と呼ばれている何にも影響を受けない純粋な独立した主体ではないとおもうよ
      だからその所謂私というもの、それはわたしなのか、それともそれはわたしではないものではないかはハッキリしていることだと思うけどなあ」
A子さん:「そういっても現実にこの私には思考しかないし、私は対象を認識しているわ、結局はラマナ・マハリシの言うようにこの人格にとっては認識すること
      も知覚も時間によって分離して汚されているのだから、この私には恩寵が来ない限りラマナの言う非思考、非対象の私というものにはなれないわ」
Bさん :「〜になる私、良くなる私、時間をかけて進歩し成長する私、恩寵を受けて解放される私、それらは時間であり、時間が生み出している条件付けられた
      プログラムという現象が生み出している思考ということではないだろうか、もし私であるなら良くなるということがあるのだろうか、もし私だったら進化した
      り、恩寵を受けて解放されるのだろうか、時間をかけて悟ったり、真我に到達したりするのだろうか
      私であるなら既に恩寵であり、既に解放ではないか、既に自由であり、自由意志があり、行為している(条件付けの行動ではなくて)のではないか
      だから認識し、知覚し、体験し、記憶している私、何かあるとすっかりこれを忘れて”あたふた”する私とは私なのだろうか、それとも時間が生み出した
      人格というものではないだろうか、だから私だと自覚し認識しているこの私とは私ではないのだ、私とはこの私ではない、私だったら記憶するだろ
      うか?私と分離したものとして外部を認識するだろうか?対象として世界を見たりあなたを見たりするだろうか?私だったら私に至るために瞑想するか
      私だったら思考するだろうか?私だったら感情を持ったり、恐怖したり、何かを願うことがあるだろうか?私だったら体験したり、自己関心に囚われる
      だろうか?私だったら夢を見たり、眠ったり、朝ベッドから起きたと思うだろうか?私だったら到ろうとして真我実現を願うだろうか?それらは私では無い。
      私とはそもそもが最初から存在していないのではないだろうか、結局は私と言う分離した認識を持っているこの個人人格こそがマインドの状態であり
      時間が生み出したマトリックスというものそのものなのだ、そもそも進化し進歩する個人や人格の私など存在しないのに、在るように思っているのは
      マインドでありそれは私ではない。それは気づきという『分離していない意識そのもの』ではないのだからA子さん、あなたがそう思っているのではなくて
      思いと言うマインドという時間が自己を肉体だと信じていて、その個体の記憶がそのように、恩寵が来て最後は悟ると思っているだけで、その記憶
      自体には悟るも悟らないもないのではないだろうか、それは単なる記憶なのだから記憶としてその役割を果たせばいいのではないですかねえ」
A子さん:「けれど私には朧気ながらも過去世の記憶もあるし、自分が徐々に導かれて成長して良くなっているのも感じているし、実際瞑想も段々深くなって
      覚者達の言葉も以前よりはかなり理解できるようになってきたわ、気づきも生活の中に見られるし、進歩していると思うのよ」
Bさん :「思いや、感じる事とはそれはその個体のプログラムではないだろうかなあ、この単体個体の肉体精神機構というプログラムに従って生み出されて
      いることではないだろうか。記憶である観察者の私というものが、肉体精神機構という頭脳に宿っているプログラムによって運営されているもの
      でもあるので、その頭脳と肉体を使ってプログラムが進歩しているように見えるだけではないか、実際はそのプログラムには過去現在未来が同時に
      畳み込まれているだけではないか、実際はその進歩している個人とはプログラムの映像であるに過ぎず、進歩も退歩も私である真の私には関係して
      いない、私・真の私にとっては良くなることも悪くなることもなく、進歩もなく退歩もなく、常にあるがままをあるがままに見ているので、その”見”には
      いささかの汚れもないし、思考と言う記憶である自我には覆われたこともないのではと思われる」
A子さん:「それはあなたの言葉の遊びに過ぎないわ、もっと現実を見た方が良いわ、聖者達の教えは、それはそうかもしれないけど、現実の実際のわたしは
      いくらあなたが真の私だと言っても、ご飯を食べなくては死んでしまうし、お金も必要だし、近頃は徐々に瞑想も深くなって進歩しているのだから・・・・」
Bさん :「どちらが現実なのだろうか、自分を肉体だと信じ空腹を感じる私だろうか、生まれて年をとって病気になって死んで幽界で又生き続ける・・そのような
      私だろうか、それとも自分というものは自己観察や自己凝視・自己想起をしていないのだということを見ている私だろうか、感情や思考を自分が
      感じているのだ、自分が考えているのだと錯覚していることを言葉なしにハッキリと見ている私だろうか
      日々の生活の中で、その思考や感情に対して反応している自我という記憶を自分と分離していないものとして愛情を持ってみている私だろうか
      そして私とは観念や記憶であってこのように分離し過去や現在や未来に生きている私とは時間である思考に過ぎないことを見ている私だろうか
      分離し個人や人格をもった私の事を思考が生み出したマトリックスであると見ている者こそが〃眼そのもの〃であり、客体や対象とはならない
      純粋の主体であり、思考ではない意識と呼ばれるもの、「思考ではない存在・無我」こそが無我というわたし・空間ではないか
      それがこのマインドという時間を成立させている基底ではないだろうか、それが観照者という”個人や人格ではないもの”ではないだろうか」
A子さん:「いくらあなたがそのように信じて思い込んで私に説得しようとしても私にはあなたは背伸びし無理をしているように見えるわ、だって現実の貴方
      の人生を見ていると、とてもそのようには見えないもの・・・ギャップが大きすぎるわ」
Bさん :「A子さんの言っていることもよく分かるよ、でも私にはこのハートと頭の奥に大きく拡がっている空間「私ではない全体」という意識こそが実在して
      いるのだ、とそのように信じることが正しい道であるとおもうのだ
      まだ実感という段階ではないけど、予感している・・・信じると言った方が良いけど・・・けど私には、この現実の私とは良くなることも含めてマトリックス
      夢であって、眠っている状態と同じだと思うよ、この現在の私とはプログラムであり、だから思考であり時間なのであるとおもえるのだよ
      だから瞑想して到ろうとしたり、恩寵を得ようとしたり、獲得するために努力したりするのだ・・・真我実現しよう、解脱しようとしたりするのだ・・
      私はラマナ・マハリシの言われるようにしたい
      それは〜になろうとする時間である記憶が起こしている”この分離している思考・感情・マインド”を私として受け入れることはしないということだ」
A子さん:「あなたはそうやって、きっと前世から学んできたのよね・・・」
Bさん :「そのように転生について考えていること、それは一般的に陥っている安易で間違った解釈だよ  
      現在のこの僕たちとは意識の座に沢山の思考群がへばりついているそのひとつの人格(記憶)だ、だから幾多の輪廻転生していても同一であるも
      の不変なる者とは、思考群と呼ばれている自我や今回のこの名前を持っている人格ではないよ
      幾多の転生に渡って同一であるものはこの「意識の座」と呼ばれている観照者であり、その観照者に収納される記憶の高次部分(コーザル)だよ
      それが各転生に渡って同一である意識だよ、しかしこれは人格と呼ばれている△□○という名の現在の今回のパーソナリティーではないよ、さて
      今回のパーソナリティーが物質界から幽界に移行する際には、多くの過去の自分であるもの達、この特定の意識の座と関連する個人人格群から
      離れて、観照者と一緒に自分の波長にあっている階層に移行し、そこでの閉鎖宇宙の中で、自分たちの作りだした時空間の中で暫く過ごすの
      だよ、そして準備が整うと、(ここからが重要なのであるけど)現在のパーソナリティーは観照者である意識の座から離れて、この特定の意識の座と
      繋がっていた人格群のプールで待機状態となるのだよ、そして一方の観照者といえば次の転生までの間、時空を超越した「今」の中で英気を養い
      再びこの錯覚でありマトリックスであり夢である現象界に戻ってくる
      戻ってくるに際しては観照者という意識の座のスクリーンに再びこの観照者に関係する多くの過去世の人格プールの中から特定の人格が選ばれる
      それはこの特定の意識の座・観照者に関係している人格・自我群から選別されて次回の人生を歩む事が出来るということだ。観照者は多くのパー
      ソナリティーの状況を見て、次の転生者を決めるわけだ、どういう親にしたら一番良いのか、どういう肉体や家庭の環境にして、どういうことを学ぶ
      のかを決めるのだよ、その具体的な状況とは
      この観照者と関連している「自我群のプール」から選ばれた過去の特定の人格(これは直前の人格であるかもしれないしそうでないかもしれない)
      が精子となって決められたように卵子に着床して受精卵となるのだ、これも全てが観照者及びその更の上にある設計者、現象界のカルマの統括者
      そして根源などの総意で決められる神聖なることだ、これだけの説明ではよく分からないかもしれないけど、よく言われることだが物質界を離れて
      幽界や霊界では悟ると言うことが難しいと言われるのは、即ち今回のパーソナリティーが過去の私達と言うこのグループの人格群から切り離さ
      れ単独人格で閉鎖宇宙時空間にいる状態であると、全員が悟ることがとても難しいのだよ、悟ると言うことは糸という特定の観照者で結ばれた
      長い数珠の様に何百何千何万と繋がっているこの自我達の全てが一度にそして完全に「蛹から蝶に」変身することだからだ一緒に成仏すると言う
      ことだ
      物質界では下部のチャクラに繋がっている人格群は、ハートに位置している今回のパーソナリティーと直接に結ばれ、頭脳の現在意識という意識の
      座に「自分の思考」として多くの人格が途切れることなく出現しているけど、悟りとは現在のパーソナリティーという今回の人格を通じて一挙に同時に
      この繋がっている過去からの特定の私・自我群人格群(ワサナ達)がその光りを受けて変身することなのだよ
      それが物質界ではより可能ではあるけど、幽界に行ったときは花びらが落ちるよう人格達がプールに戻ってしまうときは結びつきが難しくなるわけだ
      転生のサイクルは非常に複雑なので下記の図も参考になるとおもうよ、勿論僕は悟っていないのでこれは推測であることを最初にお断りするけどね」 







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