見ている私を見ること



多くの聖賢の方々は言われる「見ている私に気がつくことが重要です」と


「見ている私を見ること」とは、私・自我のことを観察している観察者を見ることだ、

自己を見ている観察者に注意することだ。

では

この私・自我を観察しているもの(見ている私・観察者)とは一体誰だろうか?


その自我を観察している私も、その観察されている自我自身ではないか、

ただ、同じマインドでも少し洗練されており、高次思考、純粋思考、若しくは「魂」、中間原理などとも言われているが

その観察者も

残念なことにマインドの範疇である「時間と空間の束縛」、「自他の分離」、「主体と客体の区別」という根本の錯覚の

一部分なのである

自我を見ているものは高等なマインドなのであって「鏡の私」ではないのだ。

従って此処には思考の停止はなく、随分と静まってはいるけど思考の残滓が残っている。

それは「鏡の私」である沈黙の状態ではない、

(マインドが眠っているのが沈黙ではない、眠っているのを見ているのが沈黙であるといわれている)


何故なら、観察される自己も、それを観察している観察者も同じ思考によって束縛され、同じ時間と空間の

制約の中で、同じように見るものと見られるものとに分離しているからではないか、それは「鏡の私」ではない。

それは同じ思考なのだ。同じような主体と客体の分離に染まった思考であるからだ、同じように言語・言葉とい

うものを使用して思考しているからだ。


内面や外面を見ている私(自我)、怒りや欲望や恐怖などに対してある一定の決まったように条件付けられて、

悲しんだり、怒ったり、欲望したり、恐れたり、喜んだりしている私、

肉体と頭脳からの単純な反応を繰り返している私(自我)などを、観察している私(観察者)とは、

その条件付けの反応をしている私(自我マインド)とは別物であるのか。

それを、あたかも自分とは異なっているように思っているだけであって、自我を観察している私とは即ち自我自体

であるのではないか。


自我も観察している私も同じ自我なのだ。それは「鏡の私」ではない。

それは同じ自我というマインドである「思考の記憶である私」の裏と表なのだ

同じマインドの側面を一つは主体と言い、一つを客体と言っているだけだ

若しくは一つを主体という見るもの、一つは客体・対象という見られるものと言っているだけだ

それは両方同じように、マインドという「主体が対象を観察している」という思考・心の作用ではないか

それなのに、私たちは自我を観察している観察者とはより高次のハイヤーセルフであると思っているのである

もし本当に高次であるのなら、そこでは思考が沈黙し、言葉もなく、熟睡中も目覚めている「気づき」があることだろう


では

その自我を観察している観察者ですらをも、自我であることに気づいている私とは誰か


違う言い方をすれば

その自我を観察しているもう一つの自我即ち、観察者とは誰か、と質問しているものだ

その状態が訪れたとき

それらの両方ともマインドであることに完全に気づいているとき、諸体は静かになる。

それに気づいているときマインドは静かになってくる


そしてこのマインドの静寂の中に、マインドの静寂を引き継ぐかたちで

あちら側から(鏡の私の中核から)静寂がやってくる、と教えられている。

「中間原理である魂」の奥にある観照者(真の私・アートマン、ハートの中核)がマインドの静寂を引き継ぐと言われている


此処の地点までが自力門の限界であり、後は完全な明け渡し、即ち他力門でしかないのであろう。

全託をしようとしていたのは、マインドであったが、ここで本当の全託が起こるといわれる。


これまでは、「鏡の私」ではなかったマインドによる自我の働きであったけど

ここから先は真の私である「気づき」が自動的に行ってくださると言うのだ

ここから先は内なる真の私の恩寵で全ては自動的に行われていくというのだ

ところで

その真の私である「気づき」である私とは誰か、

自我を観察している観察者の私を、観照している私は誰か

恐らくこのとき質問をする者もなく、答える者もいないことであろう、マインドがないので質問もなく、答えもなく、

言葉もないからであり、この気づきに気づいているマインドはいないからである

私には思う事も推測すらすることも出来ない状態ではあるが

「気づき」とは気づきに気づいていないのである。

「気づき」を意識していること自体が「気づき」ではないことを証明している

そうであるので「この状態・気づき」は記述できない、伝えられない、記憶できない、それは「在る」と言われる。


であるのでそれを言葉で指し示すとき、記述しようとするとき、記憶し伝達しようとするとき、それは単なる指示

代名詞であることを知らなくてはいけない。

その状態はマインドを超えているのでマインドの範疇の手段である記憶や言葉で示すとき、虚偽となってしまうのだ。



従ってこれと同じく「神」も肯定的に言う場合、それはマインドという「神ではない状態のもの」を指してしまう

「神」とは神という思考ではないものである、というように否定的に示すことが記憶と言語であるマインドの限界である

「神」とはマインドでも、対象でも、客体でもない、それは分離している体験や知覚や認識の範疇にはなく、

その範疇のなかにあるものとは至高なる者ではない。

その至高なるもの、それは「私ではない私」であり、思考ではない気づきであり、部分ではなく全体であり、分離では

なく統合である、状態の中に顕現しているといわれる


その状態とは、個人ではなくただ一つであるものである。

それは「見るものは見られるものである」に気づいている私ではないだろうか、

マインドにとっては「未知なる私」ではないだろうか、無思考、非対象の非二元状態であろうか



その「見るものは見られるものである」に気づいている私の事を観照者というのではないか

観照者とは自我を観察している観察者を観照している私の事であるのだろう

これこそが「未知なる私」「鏡の私」ではないだろうか、そしてそれは無思考、非対象なのだ

「見るものは見られるものである」の私に、とどまっていることが真の瞑想ではないか

「見るものは見られるものである」の私で「在る」事が真の瞑想ではないか


「見るものは見られるものである」の私に心を尽くし、精神を尽くし、誠意を尽くして、留意していることが瞑想ではないか


この「見るものは見られるものである」の私とは別名「私は在る」「I AM」「我は神なり」とも言われている真の私であり

真我のことであるのだろうか。



そしてこの「見るものは見られるものである」の私は、分離しておらず、全体であり、あなたは私であり、歓喜であり、

平和であり、愛そのものであり、秩序であり、そして、無思考、非対象そのものであるのだろう。

それを少し難しい言葉で言えば「主体は客体である」状態。

即ち、この幻想である(分離しているように見えている)「主体」と「客体」が一つとなり、両方共に超越して空となっている

状態であり


此処の状態を意識面から観て言うと、完全なる静寂、もしくは完全なる沈黙というのかもしれない。マーヤであるマインド

がそこにはないからである。


であるので




瞑想に於ける留意点とは

この「見るものは見られるものである」の状態である私としてとどまり、その私として在ること。

「見るものは見られるものである」の私のことを注意していることなのだ。

それは、とりもなおさず思考なく、対象なくして、何も求めず、何にも到ろうとせず、何もすることをせずに、この鏡の

私に留意していることなのだ

これが瞑想であり

これが観照だ

そしてこれが自我を見ている観察者というマインドを観照している事だ

此処からさきにはマインドもなく、思考もなく、自我もなく、記憶もなく、分離もなく、私もなく、ただ「私は在る」だけがあると

言われる真の沈黙・瞑想であろうと思われる


ラマナ・マハリシの弟子のプンジャジは言われる

「ことはただ起こるのだ

運命又は自由意志という問題はそこにはない。

物事は単に起こるのだ。そして、あなたはこれらの物事の一つに過ぎない。

あなたが真理に目覚めたとき、全ては夢で、夢として理解するのだ。」



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