真の神聖なる地とは


プンジャジは網膜の奥の中心に最も聖なる真我の場所があると説明している
そして、そこからわき起こってきた「私」という第一の想念を通じて、自我(エゴ)と神々と世界という分離二元性の現象世界が
顕現してきていると教える
そして、この網膜の奥の中心にある「空」を、想念無しに見ることが「私」と、その「私」が見る対象である顕現世界(現象世界)が消滅し、自我(エゴ)の「終焉」をもたらすと力説する

そして更に、その空とは気づきであり、究極の意識であることを説明する

(※気づき:
プンジャジの語る「気づき」とは、見る者と見られるものという、分離・二元性を全く含まない意識であり、全体そのもの、普遍そのもの、愛そのものである。
これは全体、完全、すべて、一つなどと言われるが、言語や言葉では全く表現できない意識のことである。
これに反して通常の意識であるところの、思考意識・二元意識とは、この「気づき」の意識レベルからすれば眠っている状態であり、非常に速度の遅い意識でもあり、この思考の特徴は「愛」ではない意識であることである。
ラマナ・マハリシの翻訳ではこの「気づき」を「意識」と呼称していることもあるが、すべての次元を成り立たせている根本の超越次元の意識でもあり、この「気づき」の特性は、愛そのものであり、時間・空間・自他の分離・二元性などを全く超越し、「今・此処・存在」などともいわれ、通常の意識、即ち思考や想念レベルにとっては全く未知なる次元の意識であり、知覚も、体験も、認識も、類推も、想像も至ることはできない。
この「気づき」が起きた場合は頭脳の変換を成し遂げる。がしかし、「頭脳の変換?!」がこの「気づき」をもたらすものではなく、、この「気づき」が、受信機であり、送信機である超高性能であるともいわれるPCのような頭脳の構造をまさに変えてしまうのである。

※「私」:
ここで述べられている「私」とは、真我や観照者のことではなく、真我によって設計されプログラムされた「私」という概念の固まり、記憶の固まりとしての「私」のことであり、偽我とも自我(エゴ)とも称され、この眠っている意識そのものでもあり、現在の人類の意識そのものであるところの分離し、虚構の存在である人格としての「私」である)

以下,
プンジャジ「覚醒の炎」より抜粋


「想念を見なさい。あなたの目の前にあらわれるいかなる想念も見守りなさい、そして何が起こるか見なさい」。

想念は過去から起こる。
想念が過去から起こるに任せなさい。
それを見なさい。
そうすれば、それは消え去る。


想念が来たなら、それを見なさい。
最後に現れた想念を見なさい。
今、残っているのは何だろうか?

消滅だ。

なぜならもはや、想念は見あたらないからだ。
想念が消え去り、空がそこにある。
今、あなたは空を見なければならない。
いま、対象物の不在がそこにある。

その不在を見なさい。

空そのものを見るのだ。

次の想念は訪れない。なぜなら空がそこにあるだけだからだ。


気づきが有るとき、どうして他の想念が入り込めよう

そこには気づきを知るものはあり得ないのだ

気づきに気づくために必要なものは何もない。

気づき以外に気づきに気づけるものは無いからだ。


この気づきは見られる必要さえない。

あなたの目をその方向に向ける必要さえない。

この気づきは、見るという行為以前に存在しているからだ

事実、目を機能させ対象物を記憶させるためには、気づきが必要とされる。

なぜなら見ることは、心と感覚の活動だからだ

そこには心と感覚の間、「私」と対象物の間に相互作用が存在する。

そのためには、わずかばかりの努力が必要とされる

だが、ただ気づくだけなら努力は全く必要ないのだ。


あなたは、「私はこの世界であらゆる活動を行っている」と考えている。

だが真実は、この気づきがすべての活動を維持しているのだ。

ひとたびすべては、気づきの中で起こり、気づきによって維持されていることを理解すれば

あなたはこの世のすべての活動から自由になる。

あたかも、あなたが物事をしているように見えるかもしれないが

だが、あなたは何もしていない。

そして、あなたはそのことを知っている。

あなたはすべてが、気づきによって行われていることを知っているのだ。

すべての活動を行うのは「あなた」ではなく気づきであることを知れば、記憶は後に残らず、プラーラブダ・カルマを蓄積することもなくなる

次の誕生を生み出すカルマはもはや存在しなくなり、こうしてサンサーラは終焉するのだ。

あなたの集中や瞑想の行為は足跡を残す

あなたはそれを記憶にとどめる

そしてその記憶がサンサーラになる

あなたはカルマを蓄積し、このカルマがあなたに再生という結果をもたらす。それは果てしない循環の輪だ。それはすべてあなたの創造なのだ。


だが、もしあなたが気づけば、いつでもそれを止めることが出来る。なぜなら、その気づきの中ですべては火のように燃え尽きるからだ


あなたは本来のあなたに戻らなければならない。「私は気づきだ」に戻りさえすれば、すべては崩壊する。

顕現とサンサーラというゲーム全体が崩れる

これが起こるときが自由と呼ばれるのだ。

それ故に私はあなたに言う、「それを達成するために努力はいらない」と。

それは、常にそこにあり、あなたが行うこと、あなたがなす事のすべてを支えているのだ。

気づきは常にそこに在る。このためには時間は必要ない。

あなたはヒマラヤに行くかもしれない。どこかの寺院に行くかもしれない。だがそのようなことは助けにならない。あなたは自分自身の真我に直面しなければならないのだ。

もしこれを無視して天上界のブラフマー神に会いに行ったとしても、彼にあなたを助けることは出来ない。なぜなら、彼自身が束縛されているからだ。彼自身が解脱を求めている。すべての神々は解脱を待ち望んでいる。

最高の神、最高の教会、最高の寺院はすべてあなたの内側にあるのだ。ただそれが見えないため問題が起こる。

それが内面に在るため、あなたは注意を向けずにいる。

だがあなたが探しているものは常にそこにある

それはあなたの呼吸の背後にある

それは網膜の背後にある。

ただ内側を向きなさい。

網膜の背後を見なさい。

そして目に光と見る力を与えているその場所を見るのだ

網膜の背後に一つの場所があり

網膜はその場所から顕現全体を見る力を得ている

ただそれを知るだけで良い。

ただそこを見なさい。

ヨーガによってもヤグニャによっても、祈りによっても、慈善によっても、巡礼によっても、沐浴によってもそれを達成することは出来ない。

私が語るこの場所は

神聖な中でももっとも神聖な場所だ。

ひとたびその中で沐浴すればそれで充分だ。

その沐浴とは何か?

この神聖な沐浴とは、汚れ無き無想の境地のことだ。

この河で、この聖なる水の中で、この想念の起こらない場所で沐浴しなさい。

−中略−

私は「私」という想念さえ入ることの出来ない場所について話している。

受容や拒絶をするには、「私」が必要とされる。

そこには「私」という想念が無い限りは、受容も拒絶もあり得ない

これが「私」が存在できない場所なのだ

この「私」は心の源だけではなく

世界とその創造者の源でもある。

だから

その場所では「私」も創造も創造者も存在できない

受容や拒絶をする創造物はそこにはいないのだ。

創造も創造者も「私」が現れた後にのみ起こる。

もし「私」が現れなければ、創造者が現れることもない。

「初めに言葉ありき、その言葉は神なりき」といわれている

その言葉、その名前は、語られているこの空から現れるのだ

真我の空は神や言葉以前に存在している


そこは静寂の地なのだ。










































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