知ることとは誤解すること
知ろうとしているものとは果たして誰なのであろうか?誰が知ろうとしているのか・・
そして何に故に知ろうとしているのであろうか・・・?
知ろうとしているものは、知ることを超えていることを知ることが出来るのであろうか・・?
知ろうとすることは理解から離れて行くことだ、といわれている
知性や理性で知ることとは知的理解であり、知的理解ではその知的範疇を超えることは出来ない
「知的な理解などというものはない、それは誤解することである」
有名な覚者の言葉です
これはマインドではマインドというものを理解できないということだと思います
マインドの記憶であり結果である私達思考は、決して「理解するということは無い」と云うことです
そういうことであるので、
知識・記憶・自我ではこの現象界の仕組みや宇宙の経綸・輪廻転生のカラクリを理解できないでしょう
そしてその知識で知った転生や現象界の仕組みということは、
決して理解ではなく、誤解することでしかないと言われているのです
この次元のことを理解ているものは、もう一つ上位の次元であらねばならず
この次元内ではこの次元の全容を理解することは出来ないと言うことではないでしょうか
知ることや理解すると言うこととは、知的な作業ではなく
知的に理解している知識とは単なる知的作業であり、本当の意味での知ることや理解ではない
と言うことです、
この知的理解・・・・
これは何処まで行っても、単なる知識の範疇、思考の範疇、自我の範疇に有り、
その知りたい、知ろうとしていること自体、知的な探求自体が
知ろうとしている主体である自我の働きそのものであり、その自我の内部なのです
その知的探求、その知ろうとする欲求とは、私と言う記憶・自我が起こしていることだからですと
なので、この現象界の仕組みを知り、マインドのカラクリを暴き、転生のシステムを知的に知ることとは
誤解するということだといわれているのです
精神世界で見られる多くのこの知識欲と探求欲、達成欲、そしてこの自我が真実を知ろうとする欲望が
世界中で幅を利かせて、さも当然の素晴らしい事のように思われております
そしてその知識欲、探求欲という欲望の果てに
知識でもって現象界の仕組みを探求したり、知識でもってマインドのシステムを明らかにすることが
出来るかのような錯覚を与えています
しかし決して転生の秘密を明かすことも、自我である私とは何かを明らかにすることも
まして「気づき」である思考を超越している意識を明らかにすることは、知的には全く出来ないことであり
理解とは知識や記憶にしかすぎない自我によっては全く出来る事ではないとおもいます
だから本当の事、「あるがまま」を真の意味で「知ること」とは
知性や理性で以て知的に知ることでもなく、分かることでもない、(それは必然的に誤解することである)
ということを覚者がたは指し示しておられるのではないでしょうか
なので今までの覚者の方々は
私達とはマインドであり、単に思考であり、
その思考の記憶でしかない自我にとっては思考の中で、思考しか思考できないので、(言葉で語られるこ
とは知識になってしまい結局は誤解させてしまうので)決して
真相を語らなかったのでしょう
知ること、理解することは、畢竟するに知識や記憶というものである私・自我には不可能なのです
私達思考の記憶である自我には知る手段がないのです、知ることはないのです
知識や思考の記憶であり、結果にしか過ぎないものにはその思考の全体も、そのシステムも知る
ことはなく(何故ならそのマインドの全体であり、マインドシステムこそ未知なる根源からのものだ
と・・)まして知識や思考を超越している「気づき」であり、全体である真の私を知るよすがも
ありません
であるので「私達の知ることができること」とは、実際には全てが誤解なのだと言われているのです
私達が知識で知ることの出来ることは全てが概念であり、実在ではなくて嘘なのです
ここにクリシュナムルティー達が何故、輪廻や霊魂に触れなかったのかという理由があるのではないか
と思うのです
私達とは思考の低次の記憶であり、条件付けられている頭脳の反応です、従って、その思考の低次
記憶では思考の全容も、マインドのカラクリも、思考の全体的システムも、そしてさらに思考を超越
している「気づき」の領域の事は、全く理解出来ないのです
私と言う個人が知ることが出来る全ては、誤解だけです、虚偽だけを知ることが出来るのです
私と言う個人であり、思考であり、記憶でしかないものが理解することとは、単なる知的理解でのこと
でしかなく、必然的にそれは誤解すると言うことになるからです
言葉を替えて言えば、
真理の探究とか、神の探求とか、真実の求道とかは、言葉で聞くと素晴らしい事のように感じられま
すけど、正確に言うと、それは単なる現象の結果でしかないもの(頭脳の条件反射である私と言う記憶)
が、その「起こっている思考と行為」の理由と目的を知ろうとすることですが、その知ろうとする理由とか
目的とかいうこととは、条件付けられている頭脳の結果である私達にとってのみ発生していることであり
その知ろうとすること自体、神と一体になろうとすること自体が自我という記憶が起こしていることでは
ないでしょうか
もし、真の私・気づきであるなら、既に「I AM」であり、それであるので決して知ろうとしたり、良くなろう
としたり、実現しようとしたり、探求したりはしないことでしょう
私達は思考の記憶であり結果にしか過ぎないので、必然的に必ずそれ故に、良くなろう、進歩しよう、
真実を知ろう、真我実現しよう、神を求め、神と一体になろうとするのです
そしてこれが間違いなのではないでしょうか
そしてこの欲望こそが
良きこと、真実のこと、真我であり究極の存在から遠ざかっていく運動なのだと思われます
これこそが、この低次次元特有の動きであり、自我の運動であり、私と言う記憶の必然的な動きで
あり、条件付けられている頭脳の反応なのではないでしょうか