自分自身を対象として見ているときは自分に気づいていない
自分を見るとは、自分を対象として、心が心を見ることではない、その状態は自分に気づいていない、マインドに支配されている
自分を対象として見てはならない、それは自分に気づくことではない
自分自身の主体を、自分自身の自我を、自分自身の感情を、記憶を、想念を
認識の対象として
知覚の対象として
主体の対象として
見ることそのものが分離であり、自分の気づきを妨害する、それは自分を見ることではない、自分が虚偽に捕らわれていることだ、マインドに捕らわれた結果見る主体と、見られている対象としての自分を作り出したのだ
その
自分が対象として見ている自分、自我、色んな感情、思考、想念、記憶、思い出
そして
認識している自分、知覚している自分、その主体そのもの
それこそ
見られるものである所のマインドが作り出した
幻想の自分
錯覚の自分である
この
主体と客体に分かれて観察するという虚偽こそマインドの策略だ
見る自分と見られる自分に、主体と客体の分離は虚偽だ、マインドそのもののシステムだ
これらの自分を
観察している自分こそ
虚偽の自分である
マインドが作り出した虚偽の主体である
自分を認識の対象として見るとき、それはマインドが自分を投影して、あたかも見る自分と見られる自分が在るかのように錯覚を起こしているのだ
自分の記憶を認識の対象として見るとき、それは自分ではないマインドが生きてきて作り出したその記憶を、その記憶そのものが作り出した自分が見ているのだ
自分の対象として心の中の映像を見るとは、その映像そのものがマインドが作り出した二元性だ
これらのマインドのシステムに気がつき
自分を主体と客体の分離を止めること、そこから去ること、
この見る自分と見られる自分という
構造(システム)を虚偽と見ること
虚偽を虚偽と見ることの中に真理がある
虚偽を虚偽と見ることは真理が後押ししている
逆に言えば
真理がそれらをなさしめてている
虚偽を虚偽と見ることをである