私はまだ誕生していない


私は生まれていない。

私は誕生していない。

この私は結果であり、わたしではないものであり、わたしは生まれていない。


この私は私ではない、主体ではない。

この私は生きていない、この私は行為していない、自分が行為していると錯覚している私だ


ハートの中で「わたし」と自問自答するとき

どの自分が返事をするのか試してみたら

「わたし」と感じられるものは、『結果としての「自我(エゴ)としての私」』であって、主体ではないものであった。私はまだ誕生していなかった。

そう言うことであるので、

この現在の私とは私でもなく、主体でもなく、単なる結果であり、映像としての「わたし」、投影されている「わたし」であり、行為している私ではなかった。(行為は根源が起こしている結果である)

このわたしとは、自分が行為していると錯覚している「わたし」であり、わたしもどきであり、スクリーン上に起こっている「私と思っているわたし」、すなわち自我である。(スクリーンという無限空間の意識が主体であると云われている)

実は、わたしはまだ誕生しておらず、生きていない。

これはわたしの人生ではなく、「私と思っている結果としての映像のわたし」であり、根源の自作自演の物語上のわたしである。

だからこそ、このわたしには意識がない。マインドしかない。

意識がないのに、じぶんは意識していると、「この主体ではないわたし」は思っている。思考しかないのに。

何故このわたしはわたしではないかというと、この「結果としてのわたし」は

頭脳の結果であるからであり

思考しているからであり、

感情を持っているからであり、

記憶に条件付けられているからであり、

内部と外部に分割しているからであり、

今を決して知らずに、時間の中に生きており、過去と未来を認識しているからであり、

全ては一つであると云われているにも拘わらず、分離していると思い込み、

他人は私自身なのに、又は私はあなたなのに、自と他に分裂し、内側と外側を逆転し

「見るものは見られるものである」と感じていないからであり、

愛していると言葉で言っていても、実際には愛がないからである。

だから、このわたしは私ではない、私は未だ生まれていないからである。


このわたしは私ではない

何故なら自分は輪廻していると思っているからである。

輪廻している私は真の私ではないと常々云われている。

輪廻しているわたしは私でもなく、主体でもない。

主体は輪廻しない、と云われている。

輪廻している私は、映像の私であり、結果としての、このマトリックスの一部の登場者であっても、それは主体ではない。

過去世のわたしは私でもなく主体でもない。

それは映像であり結果であり私ではないものである。

来世の私も私ではない、それは時間と云う、愛ではないもののなかに登場している「わたしではない私」であり、映像だからだ。

輪廻の中には、決して私は誕生することはないだろう。

今の中にしか私は誕生しない

とそのように教えられている。


この自分にわたしはまだ誕生していない。

何故なら、この自分がまだ死んでいないからである。

最近、私は親しい友人を急性の癌で亡くしたが、彼も全ての人類と同じように、次の次元で、(霊界で)結果として、映像として生きており、従って「自分は霊界で生活している」と霊界にて、錯覚し続けていることだろう。

かれは生きていはない、かれは未だ生まれていないから。

何故なら彼は、多くの人類と同じように、死ぬことなく亡くなったからである。

死ぬということは肉体や幽体や霊体の死ではなく(それは再誕であり死を否定するものだ)

実際に思考であるわたしが死ぬことだ。それがなければ、誕生することなどは出来ない。

しかし肉体の死は、決して死ではない。肉体の死とは死とは関係ない。


この神聖なる死が起こるためには、まず覚醒がなければならないと教えられている。



私が誕生するためには死が起こらなければならない。

そして、このわたしが死ぬためには覚醒が起こらなければならないと言われている。

そして覚醒とは、

この「自我(エゴ)としての私」からの「覚醒したい」という欲望の結果ではなく、この自我の努力の結果でもないところの
恩寵が起こるべくして、この頭脳に起こらなければならない。

これは起こるべくして起こると言われている、全てを為すのは恩寵だけであり、

その恩寵を引き出そうとする、自我のこちら側からの作用の結果ではない。


恩寵とは虚偽を虚偽と見る事が出来ることである。

虚偽を虚偽と見る事が起こるとき(自分の思考で虚偽を虚偽と見る事は出来ない、それこそが偽りである)


知識の限界が知られる

言葉の限界が知られる

経験の限界が知られる

体験の限界が知られる

思考の限界が知られる

理解の限界が知られる

そしてこの大元である分離・二元というマインドの限界が知られる

正確には知られるのではなく、知ることが起こる

覚者は言われる、全ては起こっていることであり、結果であり、

しかしそれは私が誕生した暁には「なにも起こっていなかった」と。






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