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愛が神である

愛は神である

愛が神である

神についての言及が少ないクリシュナムルティーの神についての、愛についての言葉である

ではその神である愛とは、愛である神とは

愛こそが原因の原因である、そして現象界、意識界、私達は結果であり、私たち自身も起きていることも結果である

愛はこのインターネットという構造にも似た関係性を成り立たせているものである、私たちは関係性そのものである

愛は真の私である、真我である、

愛が今此処にいるのである(と言われている)

愛は「正見」である、目(神の)である、そして、この「見る」とは、

「あるがままをあるがままに見る」ことであり、それは「見るものは見られるものである」であること、

対象が私自身であること、分離していないこと、二元性ではないことである

愛は目である、(この目は網膜の奥に位置していると言われている)

この目は分離しておらず、私の目を生かしている、
だからこの真我の目が私の目である、
それは見られる対象が見る主体と分離していないこと、
貴方は私であるということ、私は貴方であること
この恐怖は私であること、この憎悪は私であること、この欲望は私であること、この不安は私であること
即ち見ている主体は見られている客体そのものであることである

具体的には

この一見、意識の座にやってきている思考や感情は、私ではないマインドであるかの様に見える

しかし

愛であるところの「見るものは見られるものである」の非二元性の目で見るとき、
その対象である、見られている私でないものとは、私自身であり、見ているものそれ自体である
即ち観察者は観察されるものである、とそのように言われている

この時、愛の非分離性、非二元性にとっては、一体どのように見るのであろうか

その見られて体験し、知覚されlている恐怖と、憎悪と、悲しみと、不安と、嫉妬と、欲望が実は自分自身であったこと、
これらをあるがままにじっくりと沈黙の中で自分と分離せずに、私自身として見るとき、
果たしてそのとき知覚され、体験され、経験されている恐怖と、憎悪と、悲しみと、不安と、嫉妬と、欲望と、高慢と、
そして観察者であった見る主体である自己というものは有るのだろうか、
この神である「愛の目」の中にはこの二元性・分離性であるマインド達は存在しているのだろうか

クリシュナムルティーは言う、この「見るものは見られるものである」のなかには、光しかない、愛しかない、秩序しかないと、恐らく上江洲義秀先生だったら神しかないという表現を使われることであろう

この網膜の奥にある真我の目でもって(即ち愛の目)、見たときには全てが愛一元、光一元、神一元ということであろう

この愛そのものである「見るものは見られるものである」の光である神の目のなかでは、闇は存在できないのである、
虚偽は存在できないのである、光があるとき闇は無いからである

この愛の目が輝くとき
虚偽であり、闇であるマインドはそれが生み出した時間、自我(エゴ)、そしてその属性である欲望や恐怖や何かになる願望、憎悪、暴力、不安等と共にそこではいない、存在していない
それらは光の不在である闇であり光が輝いたとき、その闇は存在できない、
闇が有ったのではない、既に最初から存在していた光を見なかっただけである

だから
私たちの仕事とは、その光を見ることである

その私達の仕事ワークである、愛を放射すること、見るという光を放つこと
光が見るとは、
見ている観察者と、見られている対象であるもの思考達は一つであることを正見すること
その対象を愛の懐に抱きしめることである、


親の言うことを聞かずに遊び回る不良の我が娘は私自身である、
嫌な噂を流す隣の親爺は私自身であった、
真理探究に少しも理解を示さず非難しているばかりの夫は私自身であった、
また内部に於いては
私自身の心の中に繰り拡げられる葛藤や、身を焦がすような欲望も、不安で不安で苛まれるその恐怖やイライラも全ては私自身であった、
それなのに二元性のマインドに捕らわれて、私とは別の対象であると間違って錯覚していた、
それらを自分ではないと錯覚していたに過ぎない
「見るものは見られるものである」であった
また
私の知覚や経験や体験の対象である、時々出現する天使も悪魔も神々も、
心の中に繰り広げられる思考や想念や欲望も、善と悪の概念や、時間や空間の概念も、それらは私であった、
さらにこれらを見ている主体である分離していると錯覚していた自分自身、観察者自身である私自身がみられるものであった、


そして今ここで
神である愛は、愛である神は
愛の中身である「見るものは見られるものである」の「目」として、
私は正見する、
内と外が分離していないことを、愛でもって「見る」

否、そこには私はいないので、ただ見る
そのときこの愛の目の中で
(愛という非二元性、非分離性のなかで)
全ては愛となり、全ては神となる

これこそが愛である神の目の奇跡である

あるがままをあるがままに見るとき、
「見るものは見られるものである」としてみるとき、
このとき原因が作用し、結果は原因によって変えられる、
秩序がもたらされるのである

愛がそこに現前している、神がそこに現前しているからである

この仕事こそが、私たちの現象界に降りてきた仕事である

それが愛であり、愛でもって正見すること、
分離せずに、全てを愛で包み込み、抱きしめることである

これが「見るものは見られるものである」であり、「あるがままをあるがままに見る」ということである

と私は観念している

愛の目、網膜の奥の真我の目で分離無く見るとき

此処には私はいない、個人はいない、そして以前のマインドで見ていた分離した世界は消滅している、錯覚だったのだ

愛のみがある、

神のみがある、そこは歓喜であり平安であり喜びであり、全てが全てであると覚者方によって言われている


このワークこそが
自由意志の全く存在しない私たち、
為すことは一切無く、根源によって起こることが全てである、この現象界の中で、唯一開かれている窓であり、自由が有る場所である
この窓は大空である愛に通じている

とそのように観念しています