目を見ることは出来るのか
このところ,672夜http://www.672ya.com/さんのホームページからも分かるように、672夜さんから丁寧なご指導を戴いたことに、心から感謝している
672夜の彼から一番教えられたことは
私の眼が閉じられていること
それにも拘わらず、目が開いている人のように語ってしまったと言うこと、
これは詐欺であること、である
此処で、このホームページを読んで下さっている方に心からお詫びしたい
勿論、自覚している私、(この思考レベルの状態の自分で)は騙すつもりではないのだけれど、
この私と言う「目」が閉じられており、その目が機能していない状態の中での、思考し、思念しているこれ自体が、
(この私と考えている「記憶」が思ったり、感じたりしていることのこの概念や考え自体が)
マインドの領域(自我(エゴ)の領域)内であるにも拘わらず、
目が開いている人の言葉を、さも自分の言葉のように語って
皆様に混乱させてしまった、事を指摘して下さり、深く反省している次第です。
考えてみれば、以前に上江洲義秀先生から烈火の如く叱られたのも、この目が開いている人の言葉を、さも自分が目が開いているかのように、して語ってしまったときであったことを思い浮かべ
672夜さんがホームページのなかでショーペンハウアーの喩えで説明して下さったように、
至聖なることを語るには、自分がその次元、若しくはレベルでない限りは嘘を吐いていることになる、ということであった
彼のホームページにこの辺のやりとりは詳しく載っているが、此処で私なりに、彼の忠告を解釈したいとおもう
★・虚偽を見るためには、虚偽と見るための、その「目」が開いていることが必要であること
(「目」が開いていないのに、虚偽を虚偽と「見ること」は出来ない)
★・自分が覚醒しておらず、眠っていることを自覚するためには、眠っていることを見ることができる「目」が開いていることが前提であること
★否定的接近(クリシュナムルティーやラマナ・マハリシたちの)をするためには、その否定するための「目」が、開眼している前提がまずもって必要であること
(従って否定的接近という衣を纏った、肯定的な接近は全てマインドの領域の中であり自我(エゴ)の働きであること)
★・自我(エゴ)を自我(エゴ)と見るためには、自我(エゴ)を見るための「目」が開いていることが必要であること
★・熟睡、夢見、日中の目覚め、という意識及び無意識(即ちラマナ・マハリシのいう眠っている状態の意識)とはすべて「目」が開いていない状態での意識若しくは無意識の次元若しくは状態であり、
熟睡時に、この熟睡している意識を見ている高次の「気づき」という「開眼」した「目」がなければ、
この、全てが眠っている意識状態を、「見ること」が出来ないのに、
それを覚者達の高次の意識である「気づき」を模倣して、「私たちは眠っている」などといっていることは嘘を吐いていることである。
上江洲義秀先生をはじめとする覚者にとっては私たちは眠っている事が見えているが、(何故なら真我覚醒しているから)
その眠っていることを見ている「目」が閉じられている私にとっては、「眠っていること」は見えていない
従って、この私個人が「三界の輪廻とは全て眠っている意識次元の中でのこと」などとの真実を語る資格はないし、出来ない
★私・個人が「見ていない」「見えていない」と言うことを真に理解し、分かり、体得するためには、
実際問題として、「見ていない」、「見えていない」という事を理解し、体認し、
この「見ていないこと」を見ているところの「開いている目」が前提である
即ち、「見ていない」「見えていない」ことを理解するためには
「目」が開眼していなければならないと言うことである。
これは虚偽を虚偽と見ることについても言える
私という個人や人格はマインドの範疇内のことであり、決して自他の分離を超えていないにも拘わらず、時空を超えた領域のことを、時空を超えていない領域から単に推測し、想像し、錯覚しているのに過ぎないことの高慢を知ろうとおもう
この「マインドの虚偽」を「虚偽」と「見る」ためには、
虚偽を見るための「開眼・開いた目」がなければならないと言うことである。
「目が閉じている」状態でどうして、虚偽を虚偽と見ることが出来ようか、マインドのこの巧妙な罠を見ることが出来ようか
「目が閉じている」状態なのに、どうして私たちが眠っており、覚醒していないと言うことが分かるのか、
(その覚醒している状態からの、この次元での表明・言葉が私たちは眠っているという表現となるのであるから)
その
「眠っている」
「覚醒していない」
「見ていない」
「知っていない・知らない」
「虚偽である」
「個人や人格の知覚や体験や記憶とは、マインドの領域、自我(エゴ)の領域での体験や経験や知覚にすぎない」
などのことを本当に理解するためには(ただ単に頭の理解や、知識や、知ったり、憶えたり、記憶したり、思ったり、考えたりするのではなく)
「閉じられた目」の状態では決して「見ること」は出来ない、「理解する」ことは出来ない
なのに私は、それを語っていた、此処で大きく間違ってしまっていた
それはこの語ることの出来る波動であること
この現在の「現象実存レベルでの魂」の波動が問題となるのである
このことを語る事の出来る魂の波動レベルにはこの私個人は到底、いない
さすれば、この「レベルの私」が語ることそれ自体が嘘であり、虚偽を吐いていることである、
実際の「このレベル私の波動」と、語っている言葉が矛盾しているからであり
この語っている個人のレベルの波動で
その語っている言葉が虚偽となり、深刻な事態を招来してしまうからである
それは至聖なることを否定してしまう結果になる
これは大変なことである
この危険な私の状態
自分が全くマインドの領域、自我(エゴ)の全くの領域内のみで動き回っているのに
この否定的接近を行えると考えていた嘘を
指摘して下さった672夜さんに心から感謝している。
私のこの「目」が閉じられている状態では
決して、否定的接近も出来ないし、勿論虚偽を虚偽と見ることも出来ない、見ることが出来ない
この虚偽を見ることができる「目」が閉じられているからである。
またこの「目」を開けようとする事が、それが「開いていない目」がする足掻きである
〜なろうとすること、至ろうとすること、開眼しようとすることが最大の自我(エゴ)即ち「目が閉じている状態」のマインドがしようとすることである、この「開眼」は個人に起こることだと想像しているからである。
これは個人の出来事でもなく、個人に関することではなく、私の「眼」でもなく、私の目が開くことではなく「目」が「目」自体を開くことであり、これをマインドや自我(エゴ)で理解することは出来ない、と言われている
この開眼に関しては、個人の私は関与していない、し、関与出来ないだろう
何故なら「目」とは至高なるものであるからであり、ただ一つなるものであるからである、と想像している
けれども、世間での多くの間違った情報が氾濫している、この偽物の中での経験や体験
即ち
この「目が閉じられている」状態での体験
これが自我(エゴ)のトリップ若しくは虚言であり、知覚である
この自我(エゴ)の領域であるアストラル領域での体験や知覚を「虚偽と見ることの出来る目」の領域・次元と勘違いして
個人が神に出会ったり、個人が天使に出会ったり、チャネリングしたり、個人の前世が分かったり、観察者が贋のワンネス体験をしたりして、崇高な理論や教えに出会ったりしても
そこに個人やそれを体験している(知覚している)私や観察者というものがいる限りは、全てがアストラル・マインド領域内での事である
「目が開いている」状態の「目」とは全く個人でもなく、それを見ている観察者でもない
(観察者は観察されるものである、と高次元の目で言われている)
その「目」とは個人や個人の魂に属してはいない。
個人や個人の魂のものは「目」ではない、「目」を覆っているマインドである、贋の私である
「目」は「目」であり、それは私でもなく、あなたでもなく、全体である、
とそのように思われる
この「目」は既に、今此処に在り「開いている」と言われている
この私では無く、あなたでもなく、故に私であり、あなたであり、全ての全てであるこの「目」は
既に輝いて光っており、
全体であり、主体と客体の非分離であり、「見るものは見られるものである」であり
分離することの出来ない至高なる「気づき」であり、
全ての次元を成り立たせている根源そのものであり、
今此処に全てに遍満している愛であり、平安であり、歓喜それ自体であり、
あらゆる時に存在している完全完璧なるもの,ただ一であるもの、一命、一体
言葉で表現できず、思考することの出来ない、表象したり、抽象したり、推測できない全ての全て
未知なるもの、実在
と言われている
覚者達によって、言われている(覚者達自身がその「開眼している目」そのものである)