マインドとは
マインドとは何でしょうか
私達はそのマインドという言葉を
現在のこの地球人類のレベルで共通している
心とか意識という意味で使っています
詳しく言うと
私達の通常一般レベルの意識状態、通常のその意識の認識方法のことです
通常のこの意識をマインドと簡略化して言っています
この意識即ちマインドは自分という主体があって、自分以外のものが認識の対象として(即ち客体といいます)存在していると思っています
もちろんこの考え方は
今の地球では常識ですし、ありとあらゆるもの、文化・文明・歴史・伝統・教育・科学・家族・自分・国家・社会・政治・芸術・経済・生活・医療・宗教・哲学・心理学・霊魂・神・言葉・言語・宇宙・次元・過去現在未来・建築・星占学・物理学等々
がこの考え方の上に成立しています
ここで
今の現在の地球ではあるごく少数の人たちが、このマインドの主体と客体という
根本的な二元性が虚偽であることを体験しました。
事実は
私達は一体で、一つであるということでした
それは素晴らしい事でした。
それは
私達この現在の地球人類が眠っているという事実に気がつき覚醒したからです。
しかし、過去の歴史から見ても分かるように、
それは人類にとっては受け入れがたい事でした。
でも
事実は事実なのです。そして今という地球にとっての大転換の時が来ました。
その覚醒、即ち「この地球の今の常識は虚偽である」という本当のことが
多くのところで語られるようになってきました。
地球人類のこのマインドという
巨大な条件付けが(私達は眠っていると言うことを気がつかせないこと)
取り払われようとしています
通常の私達の主体性(自分の心という考え方=これをマインドというが実は、それに地球人類はその認識システムに従っており、条件付けられ支配されている)では、
「知る者」と、「知られるもの」、
即ち見ている自分である主体と見られている対象であるものという客体は分離していて、自分自身をも含めて、あらゆるものが自分が見ている対象である客体として(分離したものとして)意識されています。
この人類共通の私という通常の主体とは、心(マインド)が心(マインド)自体を反省する機能によって対象化して知覚し、認識することが出来るようになります。
即ち客体化されて始めて知られるようになります、こうして、私達は自分自身である意識と感情と意志と知覚と認識を自覚する事が出来るわけです。
ですので
心即ちマインドとは内省の機能そのものであり
=客体化してしまう機能そのものであり
=自己を認識の対象にしてしまう機能でもあり
=認識の対象として自己があるとおもっている状態でもあり
=自己の意識を感じている状態でもあり
=即ち自己意識そのものであるのでが、
そのマインドが働いているかぎりは、
どのようなものが対象として出現しても
自分の意識の中に姿を変えた自己が現れるだけで、
このマインドの機能自体を自分で止めることは出来ないということになります。
これは非常に大切で難しいことなので、
何回も自分の中で自問自答しなくてはならないし、
とことん考え抜く根気も必要ですけど、トライしましょう
元に戻りますと
即ち
客体化を止めようとしている自分自身が(悟ろうとしている自分が)
実はその客体化された自分そのものであると言うことです
しかし
これを完全に理解する状態
知性的にではなく、本当に全身で分かる状態
即ち「見るものは見られるものである」という
この理解へは
自分でトライしている内に
自己の努力では達せられない、ということが分かってきます。
でも
この状態は、完全なる理解と言うことは
起こることであり、任せるしか方法がないのですけど、
それを受け入れる準備をすることならば出来ます
そこで
そのマインドのシステム(客体化の機能)と
私達が陥っている条件付けという罠をしっかり見ることが、
そのまま準備することになるので、がっかりしないで準備して下さい。
でここからは
その条件付けというマインドの支配から脱出した方々の体験談です
その根本的な条件付けのことを、仏教では根本無明と言ったり、キリスト教では原罪といったりしますけど、要はこれはこのマインドの「客体化」というシステムであり条件付けのことなのです。
この条件付けは深く脳の組織そのものの条件付けですし、
それを変えることが出来るのは「やってくるもの」しかできません、
しかしそれをある神や何か対象である自分以外のものにしてしまうことはまた同じ条件付けに戻ってしまうことになります
ここで非常に注意深くなる必要があります
そのマインドの条件付けを解放する脳の変換を起こすものは、外部からの神ではなく、内部の、主体を成立させているもの自身、本当の主体である「実在」「真我」「ありてあるもの」「わたしそのもの」「内と外が一つなるもの」「すべてであるもの」であり、対象の客体では絶対にないということです
それは内側にしか在りません
純粋主体と言ったり、絶対主体などと言う難しい言葉で言ったりしますけど、それは対象にならないものです
それは内側からしか出会うことはありません
ですから
私達は目と心と精神を集中して内側に関心を集めましょう
そこで、その状態を経験した方は
いいます
「自己を客体として見られなくなってしまうときには、主体も意識できなくなる。」
と
「この意識にとっては、その主体は無に等しい。」と
そのとき
「静寂と空・無」があると
素晴らしいですね、そこで、それを見ているものは誰かという質問もあると思いますけど、それを見ているものはまさに見られているものであり、それを非分離性とか非二元性とか難しい言葉で言いますけど、いわゆる多くの覚者の方々が言う「気づき」という意識状態であるのです、この意識状態は自分と対象に分離していないといいます
ですからこの状態を、「「見るものは見られるものである」の気づきといったりします
そして
その状態はマインドという条件付けが始まる前から既にあったと言われています
「自己が始まる以前からそこにあったものなのである」。
そして、そこは
「純粋に非相対的な次元であり、
その気づきという『真我』は自分自身だけを見る『目』なのである」。
「ありとあらゆるところにある」
「私の内の客体としてではなく、純粋主体としてである」。
「そこには、観察されるものは何もないし他人というものがないからである」。
『私はそれである』と
わたしにはこの状態こそ、原罪が始まる前の状態、マインドというリンゴを食べる前の状態であり
いまここの状態でもあり
これが、今の地球人類の共通している「夢」「虚偽」から醒めることだと思います
この状態こそが「愛」であり、「至福」であり、「平安」であり「ワンネス」であり、「一命一体」であり、「歓喜そのもの」であると思います。
これは求めて得られるものではなく、最初から在ったものであり、夢から醒めたこの気づきの意識の状態そのものなのだと思います。
しかし、マインドのことは分かったとしても、実際の生活では大変なことだと思います
色んな忙しいことや気を遣うこともあるし
ああしなければ、これもしなければ、など沢山あると思います
でも大丈夫ですよ
それらは自動的に為されます
私達がこの自分に戻る動きを始めた途端
大きく舵が変わります
自動的にこれからこの真我を求めて生き始めたら、起きることは秩序を持ちます
協力してくれるようになります
但し、それはこのマインドである自我の都合の良いように事が運ぶと言う意味ではありませんけど
ことは内部でも外部でも起こるように起きてきます
しかし
導きは必ず起こります
安心して下さい