虚偽を虚偽と見ていることの中に真理がある
有名なクリシュナムルティーの言葉である
では、必ず此処で当然起こってくるであろう代表的な質問
虚偽を虚偽と見ている者は誰か、ということ
それは主体であろうか、と
そこで彼は言う
見ている者はいない、存在していない。のだと
虚偽を虚偽と見ていること(正見している、気づき)だけがあり
そこには
私はいない、誰もいないと、彼は言う。
外側とそれを投影している内側の両方に、同時に言葉無くて留意している気づきの中に
この虚偽を虚偽と見ている理解というこの中に
真理があるのだと。
従って
この虚偽を虚偽と見ている事自体が真理の働きであり
そこには
私も、誰もいないのであって、ただ見ると言うことだけがあるのだとも言われる。
虚偽を虚偽と見ていることの中には、見ている私・主体は存在しない、
それを見ている個人や自我(エゴ)や私はそこにはいないのだと。
何故なら
最大の虚偽とはこの主体であるからである、と。
本当は私など全く無いのに、自分が行為し、生きていると思ってきた、何かをしていると思ってきた。
この主体の私とは、私ではなく、各次元の頭脳に与えられている錯覚というプログラムである。
「この主体客体という分離された錯覚上の私」が私だと思い込み、思わされて、現象界維持のために役目を果たしている、この偽の私とは現象界維持のための重要なシステム中核であり、プログラムされ映写された映像である、と言われる。
この「主体客体の分離をしている非存在である偽私」こそが、この現象界と言う意識界全体のマトリックス・幻、錯覚を支えるための大根本として第一想念から生み出された記憶の固まりであった。
何故なら、この肉体や諸身体の頭脳の調整が行われず、ここ(頭脳)にこの根本無明(第1想念)が機能していなければ
この私も無く、従って現象世界も、現象宇宙も存在していないことが判明されてしまうからである。と
この肉体も、この身体も、この世界も、この宇宙も、そしてこの私も第1想念から
この頭脳を経由して投影されている映像・幻・マトリックスである、と覚者によって言われている。
では虚偽とは何か
一体、その虚偽と言われているものとは何か?
言葉を替えて言えばマトリックスとは何か
何がマトリックスなのか
それは
「目覚めること」「覚醒すること」「真我が目を覚ますこと」をしようとすることである、なろうとすることである。
目を覚ましなさい!
覚醒しなさい!
真我が目を覚ましなさい!
これが最大の虚偽である。
マトリックスという夢の中で
夢の中の人が目を覚まそうとしている
真我実現しようとしている
覚醒しようとしている
夢の中で、架空の夢のなかの登場人物が覚醒しようとしている。
覚醒し
真我実現し
目を覚ますには
覚醒しておらず、真我実現しておらず、覚醒していない状態の主体が前提とされる
だがその主体とは、即ち私とは果たして存在しているのであろうか
だから、その前提そのものが虚偽である、と言われているのだ。
「そんなことを言ったって、現実にはこの悟っていない、自他の分離をしている私がここにこうしているではないか」
と自我(エゴ)は反応することだろう
しかし、その自我(エゴ)の反応こそプログラム通りなのだ。これが結果なのだ。と
この覚醒しよう
真我実現しよう
目を覚まそうとしている主体こそがマトリックスであり、想像の錯覚だ。
この主体こそが、頭脳に寄生している「マインド・時間」(第1想念)によって作られた架空の意識即ち記憶の働き(反応)であって
これこそが実際には存在していないものなのだ。
この主体が自分が行為し、自分が自己観察や自己想起をしていると思っているのだ
だから覚者は
自分が行為し、自分が生きているのだという錯覚を理解しなさい。
この幻想を否定しなさい、受け入れてはならない。と言われる。
この「根源の私(真我ではない)」が現象界を顕現させており、この「幻想の私(真我ではない、根源の第1想念)が頭脳を経由して発生させている(この投影されている)現象世界というマトリックスを、
そして同じマトリックスが主体である(自分という分離している魂という)ものを投影しているのだと悟りなさい。
と言われる。
私や貴方が悟るのではない、悟りという「正見・気づき」が悟るのだ、悟る個人もなく、それを記憶している者ものもいないのだ
と言われる
だからラマナ・マハリシは常々に
実は現象は何も起こっていないと言われる。
起こっているように見えている世界も、そしてその世界を投影している第1想念も存在していないのだ
と言われるのだ。
そのためには第一想念を理解しなければならない
第1想念を理解するためには、分離していない真の私に注意を向けて、沈黙の言葉を傾聴しなければならない。と。
この主体である魂も
この主体が投影している世界も、宇宙も虚偽・幻想である、マトリックスである、映像である。と
なぜならそれはこの分離した知覚によって、主体と客体として二元性として経験し、体験されるからである。
だからクリシュナムルティーの言われるように
この全くの嘘を、虚偽を、幻想を
嘘である、虚偽である、幻想であるとハッキリと正見することだと言われる。
正見することが、虚偽から離れることをもたらす。
この偽善から、この嘘から、この幻と幻想から自然と離れていくのだと言われる。
だから
嘘を嘘だと見ることが真理の働きであるとクリシュナムルティーはいわれるのだ。
そして
このことを正見している今には、分離した私も貴方もいないのだ
私が見るのでもなく、貴方が見るのでもなく
見るものもなく、見られるものもなく、ただ見ることだけがある
と言われることなのである。
私はいない。これが真実だ。と
私とはこの頭脳を使って『投影している第1想念である「私」』によって投影された、全くの誤解であり、想像物だ、単なる記憶の塊であり、それは存在しないのだ、と。
この存在していないのに、この記憶が自己の存続を願い、結晶化して魂(サイコノエティック体)となり、これがカルマを引き寄せ
更なる存続の願望を抱くことをプログラムされて輪廻に巻き込まれていく、のではないだろうか。
この輪廻している私とは
この原初の「頭脳を覆っているもの」によって作られた、「私という記憶」で出来ている魂であり、プログラムである
そして
この単なる記憶であるものが
覚醒しよう
目を覚まそう
真我実現しようとしているのだ。
そして、そのためにいろいろと瞑想したり、ワークしたり、修行したりするのだ
覚醒しようとしているものが幻覚である
目を覚まそうとしているものが幻覚である
真我実現しようとしているものが幻覚である
ラマナ・マハリシは
既に、貴方は今此処に真我そのものである
至ることはないのだ、と言われる。
既に至っている、と言われる。
覚醒することはない、既に今此処に覚醒している。
目を覚ますことはない、既に今此処に目覚めている。
真我実現することはない、既に今此処に真我は実現している。
と言われる
だから
至ろうとすること
覚醒しようとすること
目を覚まそうとすること
真我実現しようとすることが
時間というマインドのトリックであり、〜になるとする行為であり、それこそがマトリックスの仕業である
と言われるのだ。
だから
虚偽を虚偽と見ること
至っているのに「至ろうとしたりする私」を、真の私ではないこのマインドの虚偽を見ること
目を覚ましているのに、「目を覚まそうとしている私」を、「真の私ではないマインド」の虚偽を見ること
覚醒しているのに、「覚醒しようとしている私」を、「真の私ではないマインド」の虚偽を見ること
真我実現しているのに、「真我実現しようとする私」を、「真の私ではないマインド」の虚偽を見ること
と覚者は口揃えて仰っている。
だから
至ろうとする、覚醒しようとする、目を覚まそうとする、真我実現しようとする
このマインドの動きに同調して
あちこちにさまよい、グルを求め、目的や動機を持った偽の瞑想をし、
観念と思考と想像の中にさまよい、錯覚に捕らわれていることを受け入れてはいけない、
このあるがままという虚偽を虚偽として、思考無く、呼吸無く見なさい
と言われるのだ
至ろうとする、覚醒しようとする、目を覚まそうとする、真我実現しようとする
これらの願いは、自我(エゴ)の動機、目的であり、
結局は自我を強大なものとしてしまい、
その結果カルマを引き寄せ、更なる転生の罠にはまってしまう。
誰がこれらの解脱を願っているのか
願っている者こそ、想念であり魂であり
主体であり
それは真の私ではないもの
そして
それはプログラムではないだろうか。
だから
私はいない。
私は存在していない。
主体は存在していない。と
至ろうとする、覚醒しようとする、目を覚まそうとする、真我実現しようとするものは
錯覚であり
プログラムであって、それは真の私ではない、真の主体ではない偽物である。
だから
この虚偽を虚偽と見ようではないか
最大の虚偽は私であり、至ろうとし、覚醒しようとし、目を覚まそうとし、真我実現しようとするものである
そして
その願望を持っている私はどこにも存在していないのだ
と覚者は言われる