現在のパーソナリティーの位置について



現在のパーソナリティーとは脳が生み出した結果ではない

魂が肉体に入ったことにより、魂から脳に投影された魂の一部分である

脳が生み出している私とは、「私という観念」に過ぎない

けれども「私という観念」は現在のパーソナリティーではない

脳を使っているのが現在のパーソナリティーと魂であって、脳が生み出した「記憶である私という観念」ではない


脳を高度なPCに譬えるなら、現在のパーソナリティーとは、魂と共にPCを動かしている主体である

それを誤っている教えでは

現在のパーソナリティーとは、記憶の一部であり、PCが生み出している記憶の反応のことであるとしている

けれどもそれは正しくないのだ


脳というPCには確かに記憶装置があり、

その記憶の反応が起こっており、感情や欲望も起こっており、演繹や帰納というような思考も、

思索も行われており

PCでは映像も映し出され、映像が配信され、上映され、3次元の立体的な出来事も映画も上映されている

五感を通じて知覚することも、脳の条件付けに従って考えることも、感じることも、高度な演算もできるし

さらにはインターネットを介在してサーバーとも繋がっている

しかし、このPCという脳が現在のパーソナリティーや魂であるわけではない

このことは重要なことである

脳は確かに現在のパーソナリティーに大きな影響を与えてはいるけれども、脳が現在のパーソナリティーを

生みだしたのではない。脳が現在のパーソナリティーであるわけではない。


そのPCという脳を使って、動かしているのが現在のパーソナリティーと魂であり

実際に行為しているのは

「脳内の記憶の反応行動や条件付けに従った行動」ではなくて現在のパーソナリティーである

カルマは条件反応による行動によるのではなくて、現在のパーソナリティーの行為に対して発生する

現在のパーソナリティーの行為は現在のパーソナリティーとその魂にその責任があるのである

このPCを動かしているのは、現在のパーソナリティー・魂であり、PCがPCを動かしているのではない

このPCを動かしているものが行為に対しての責任を持つのである


このPCを動かし、PCに対して、自由意志でもって、自らの行為を選択できる「主体」

それがラマナ・マハリシの言っている「態度」を選択することができる「主体」のことである、現在の

パーソナリティーのことである

「態度」とは現在のパーソナリティーの行為のことであり、選択であり、自由であり、自由意志であり、思考を含んでいる

意識である。それは現在のパーソナリティーであるところの「起きていることに対しての態度」のことである。

このところを、

間違って説明しているのが不充分なアドヴァイタ達である、

彼らは自らの限られた体験の中から「行為も、自由意志も、選択も、意識も、私・主体もPCという脳の結果である」

と説明していることであり、ここが最大の間違っているところなのである

この説明の延長線上に「全ては起こっている」「全ての行為は起こっており」「出来事は起こっている」

「自己という主体も、思考も感情も起きている事に過ぎない」「責任はPCにある」というように間違って説明してしまう

しかしけれども、PCという脳の中で起こっている知覚や五感や思考や感情や体験や認識や出来事は確かに

PCという脳の中で起こってはいるが

それに対しての態度の決定と、それに対しての「行為」、及び行為の責任はあくまで脳というPCを操作する私

即ち現在のパーソナリティーと魂にあるのである。


「PCである脳の中の思いと行為」とは確かに現在のパーソナリティーの行為ではない。けれども身体を伴った

「現在のパーソナリティーの思いと行為」は現在のパーソナリティーの行為であり、カルマという責任を

伴うのである


このことの二つを混同して「すべての行為は起こっている、行為は映像である」と教えることは非常に間違っている

この混同してしまうことが、多くの真剣にアドヴァイタを学んでいる方が嵌ってしまう穴である罠ではないだろうか


ここが不充分なアドヴァイタと、真実のアドヴァイタの教えとの微妙なずれである


確かに真の私ではない「幻想の私」を「幻想の私」と見ているのは現在のパーソナリティーの「眼」である

けれども、現在のパーソナリティーの本体である魂の内奥の眼は、この「幻想の私」や「現在のパーソナリティ

ーの私」をどう見ているのだろうか



魂の内奥である真の私は、この「現在のパーソナリティーの私」の奥に、魂の仏性をハッキリと視ていると言われ

ている

その「現在のパーソナリティーの私」いや「幻想の私」にすら、その奥にある魂の仏性・神性を見ることこそが、

魂の内奥からの眼が見ている真実である

それらの内在する仏性を視ている観点こそが正しい見方、即ち仏陀の八正道であると言われる
































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