自己留意ということ
自己留意とは何であろうか、それは
内部と、その内部を見ている観察者とを同時に留意していること
その「私の内部」と、「内部を観察している私」の両方を同時に受動的に凝視していることだと教えられている
それは説明すると
B内面にて、認識されている「私の内部」とは、内部や外部から私にやってきている想念や感情・思考などであり、
A「内部を観察している私」とは輪廻を続けている「記憶の塊・観察者」であり、
@それを同時に受動的に凝視しているものとは「自我(エゴ)ではない私・私ではない真の私である観照者」からの
、即ち「気づき」からの影響を受けている高次思考、純粋思考というマインドの一部である、と言うことだと思う
この「留意」では言葉はいらない、言葉を使うと「留意・凝視」ではなく「反応」に巻き込まれるからだ、留意ではなくなってしまう
この「留意」では記憶はいらない、記憶を使うと「留意・凝視」ではなく頭脳の条件付けに捕らわれるからだ、頭脳経由の記憶の働きは自己留意を妨害する
この自己留意とは真我を覚醒しようとして、なにかをしたり、行うことではない、
それらの「すること」とはマインドから出てきたマインドの欲望なのだ、その欲望であるマインドがないとき、
記憶の働きがないとき、それが真の私であり、真我の「気づき」であると言われている
真我覚醒しようとすることは、実は「私は真我覚醒していない」という「心」から出てきており、それは真我ではない、
その真我を覚醒しようとする欲望は真我覚醒を妨害するものだ、
既に真我は覚醒していると言われている、
この自己留意では、その真我覚醒していないという思考や時間やマインドという闇を「正見」することであり、何かになろうとしたり、行うことではない、その無為で在ること、ただ見ることこそが、その「闇」を晴らすことなのだ
神と一体になろうとしたり、宇宙意識に到ろうとしていること、そのこと自体が、神ではない、宇宙意識ではないところの意識である「意識・マインド」がしていることであり、それは神ではない、宇宙意識ではない、それが時間であるマインドである
その神に到ろうとしているものこそが、「〜なろう」として「在ること」を妨害している、「今此処」では既に到っているのだ、と言われている
しかし
それは神であると考えたり、思考したり、感じたり、信じることではない
私は神である、私は宇宙意識であると考えているものはそう考えているのであって、それは或る考えであり、単なる考えであるから、それは単なる観念であり、思いであり、思考であり、感覚であるので、それは神でもなく宇宙意識でもない
神である、宇宙意識であると信じたり、思ったりしているものは、それは信じたり、思ったりしているだけであり、信じたり、思ったりしている実体は神でもなく宇宙意識でもない、
信じるまでもなく、思うまでもなく神は神であり、宇宙意識は宇宙意識なのだから、それは「今此処」で全ての全てであるのだから、思ったり考えたり、信じたりという二元性ではない
神になろう、宇宙意識になろうと努力し、目標を定めているものは、その努力し目標や目的や動機を持っていること自体が、その神や宇宙意識ではないことを示している、
既に全体である意識は「今此処」に未知なるものとしてあるのであるから、それを獲得しようとして努力するこの行為こそが
実は神や宇宙意識から逃避している、それはどこかに行こうとしているからだ、
その何処かに行こうとしている、なろうとしている時間であるマインドは、「愛しよう」「覚醒しよう」「良くなろう」とするのだ
それらの動きは「今・此処あるがまま」から離れる行為なのだ、
それは「今・此処・あるがまま」から逃避しているから、神になろうとして努力し目標を持ち、目的を持ち「何かになろう」としているのだ
自己留意とは逃避しない、何処にも行きつくことはないからだ、何処にも行く必要がないのだ、今この瞬間が既に「在る」のだ。
自己留意とは「今此処・あるがまま」に「いる」、「在る」、「見る」だ
但し、マインド無しで、記憶無しで、分離無しで
自己留意とはなろうとしないことだ、
目的や動機や目標や「それ」に向かっての努力は、
それへの目的を持つこと、それへの動機や努力することであり、そうすること自体が「それ」からの働きではないことをハッキリと示している、
「それ」は目的や動機や目標や努力という未来の中ではなく、「今、この瞬間、此処」自体であると言われている
「それ」になろうとすることが、「それ」を否定している、「それ」ではないからこそ「それ」になろうとしているのだ
マインドや記憶が「気づき・至高の実在に到ろう」としていること自体が、「気づき・至高の実在であること」を否定している
「良くなること」は「良きこと」の否定であると言われている所以である
愛という言葉は愛ではない、観念や想念や思考や感情は愛ではない、それは分離しているものだ
愛は記憶ではない、愛の記憶は愛ではない、愛は頭脳経由ではない、直接のものだ。愛は内側からハートからだ。
愛は過去ではない、今・ここであり、愛という記憶は記憶自体が愛ではない、記憶の中には愛はない
愛になろうとすることは愛ではない、、愛とは既に「在る」からだ、愛とは非分離性、非二元性であり、全体そのものなのだ
愛を与えることは愛ではない、与える相手がいないからだ、愛を与える対象が無いのだ、与えるべき世界や宇宙は実在ではない
二元性と分離性の中にのみそれは存在している
愛しようとすることは愛ではない、愛しようとすること自体が大きな矛盾である、何故愛の中に対象が存在するのか、何故愛の中に愛する相手や愛する世界が存在するのか、何故愛という非分離の中に、愛する自分や、愛する相手や、愛する世界や、愛する宇宙があるのか、
そういうことであるから、この、いわゆる「私がする」愛は愛ではない、愛の中にはこのちっぽけな私は微塵もない
愛とは分離ではないことである、
愛とは私は貴方であることである、
愛とは世界は私であり、私は世界であること、である
宇宙は私であり、私が宇宙であるとき、何処に愛以外のものがあり得ようか
この愛の中には、いったい何処に分離の私が存在できようか、何処に私と分離している貴方がいることができようか、
何処に愛を与える分離している世界は実在であるのか、何処に愛の対象である客体の宇宙があるのか
もし、愛しているというなら、
その「私」や「あなた」に、自分外の私や、貴方や、世界や、宇宙など所謂、対象が感じられるとき、それは愛ではない、それは愛ではないものである、それは真実の愛を詐称しているものである
真実の愛は、愛する相手などいないし、愛している私もいない、
もしその愛している、その主体があれば愛ではない、
愛は愛という全体であり、非分離であり、全てである
それは主体や客体ではない、愛というそのなかに私と貴方はいない、世界はない、宇宙はない、全ては一つであるはずである
真実の愛の中には、愛しかないはずである、自他の分離や、主体や客体の区別はない
分離である知覚や意識やマインドや感情や感覚・超感覚は、そして、それが生み出した記憶や時間は愛ではない
愛を与えていると詐称するマインドや意識や記憶は愛ではない
愛は記憶ではない、愛は継続ではない、愛は考えていることではない、愛を考えている事自体が愛ではないことを証明している
愛は思うことや想像することではない、愛は思うことや、信じることではない、愛は祈りではない、愛は「今此処・あるがまま」に既にあり、分離しておらず、既知なるものにとっての未知なるものである
愛は体験ではない、体験は体験するものと体験されるものの分離を含んでいる、分離は愛ではない
愛は経験ではない、経験は経験しているものと、経験されるものの分離を含んでる、その分離は愛ではない
愛は知覚ではない、知覚されるものとは、既知なるものであり、既知なるものとは分離であり、分離は愛ではない、
知覚とは、知覚されるものと知覚の対象という分離が既に前提とされており、それは必然的に私と対象という分離をもたらす
従って愛の中には知覚している私もなく、知覚される対象や世界もなく、知覚自体もない、
そして、そのとき内部にも外部にも愛しか存在しない、外部は内部であり、内部は外部だからだ、
そのとき、その愛の中には私はあなたであり、私の中に世界や宇宙がある、
それが愛であり、愛の特徴だ
愛は記憶されない、記憶は必ず自己という主体を含んでおり、「客体−主体の区別」、「見るものと見られるものである区別」、であり、主体と客体の区別、分離は、全く以て愛ではない
愛の中には私もなく、貴方もなく、世界もなく、宇宙もない、何故なら愛こそが私であり、貴方であり世界であり、宇宙だからだ
愛が全てであり、愛のみが実在なのだ
そう言うことでこの分離を伴わない自己留意とはまさしく愛の働きである
自己留意とは、あるがままのこの「葛藤そのもの」を記憶の介在なくして見ること、
即ち「在る」事である、
記憶無くして在ることである、言葉無くして在ることである
自己留意とは見ている観察者と、見られている対象である内外の葛藤を記憶・言葉無しに同時に気づくことである
そのとき
「見るものは見られるものである」であり
見ている観察者は、見られている対象それ自体である、これが奇跡だ
そしてそのとき、そこには感謝しかない、大いなる奇跡に対する感謝しかない
その留意の中には分離という、全ての幻影が、夢が、非実在が消失し始めているのだ
奇跡が起きている、この奇跡を奇跡と呼ばなければ、他の奇跡は遊びに過ぎない
自己変革はいま・此処で起きる
それが「今此処・在る」である