自我への考察

この現在意識である私・自我とは?

この私・自我の内容とは恐怖であり、自己関心であり、競争心が煮えたぎり、自己の利益だけを思い、自己本位であり、肉体を自分と思っており、進歩し良くなろうとしており、安定と安全とを求め、人に認められること、ひとかどのものであり、普通人とは違うことを願っており、純粋意識を獲得し、尊敬され、他人より頂点に立つことを欲し、知足案分することなく常にもっともっとと欲し、商売繁盛、家内安全、学業成就をいつも願い、病気と死亡と損失と失敗と財産を失うことを恐れており、他人を支配しようとしている、常に自分が一番でないと気が済まぬ、常に比較し、批評し、命名化し、善悪を分けて、自他を分離している、それがこの私・自我の意識の内容ではないだろうか

この私・自我は肉体感覚を持ち、五つの感覚を使用し、高等な脳の機能によって生み出されたものである思考と感情と欲望と行為で成り立っている

更に見てみるとその思考と感情と欲望と行為は記憶の反応ではないだろうか?

その私・自我とは、だから思考の記憶そのものなのである

この思考の故に必ず、思考である私・自我はその条件付けに従ってその様に思い、恐れ、不安に陥り、怒り、憎しみ、愛がないので自己にだけ関心を抱き、将来を心配するのである

それら恐怖などは思考の本質であり「私だといっている思考そのもの」が、誰の頭脳の中にも同じく普遍的に起きており、それが分離している意識の中身なのである

それは脳をもっている全人類の共通の状態である・・それが思考の中身である、と言うことだろう

ではその私達全人類の共通の意識の中身である全く同じの思考とは何か?

思考とは私・自我の個人の所有物ではなくて
逆であり、その個人を成立させている共通のマインドの状態である

脳の条件付けでその様にマインドは思考として記憶されていて
そしてその記憶が働いて、その様に思考作用をおこして
「肉体は自分自身だ」、この「肉体の五感感覚は自分の感覚だ」、「この欲望は自分の欲望だ」「この恐怖は自分だけの恐怖だ」と人類共通の思考が思うのである、だがそれは人類同一の思考がそう思っているのであり、その同一の思考が「この思考は自分個人の特定な思考だ」と思うのである、だがそれは人類同一の思考がそう思っているに過ぎない、特別ではないのである、みんなが同じ恐怖を共有しているのである

そしてその自分だけだと思っている思考体のことを、魂の私はそれを「私だ」と思い込んでしまうのである

けれどもその肉体も、その感覚も、その欲望も、その思考も、その恐怖も
全人類共通の全く同じ脳の条件付けの結果として、全員に引き起こっている状態なのであって
引き起こされた「この結果である私・自我」が造り出したものではない


そのマインドと全人類共通の脳の条件付けに因って引き起こされている状態こそが
「私・自我の自己感覚、自己意識」である

個人ではない、人類共通の心の記憶の状態を、それを思考と言い
そしてその思考が「私は思う」「私は恐れる」「私は信じる」「私は欲する」というのである
要するに「私が」というのだ、なぜならその「私・思考」こそ「私とあなた」という二元状態に分離しているマインドというものが生み出したもの・「私」だからである

しかしそれは個人ではなくて、個人だと思っている心(「愛とは正反対の私」という分離している心)が脳に作用して「私・自分だ」と思っているだけである

この恐怖や不安は人類共通の思考である全員が思っている、その思っていることがその思考の中身であり、そして「私が恐怖している」と思考が思ってしまうのである

だから私・自我とはその個人だと思っている人類共通の心そのものだと言うことだ、心だと範囲が大きすぎるので、その心であるマインドの記憶であるものを特定して敢えて思考と言いたい
それが個人という人格そのものである
それが肉体の頭脳に結びついている
しかしこれは全く「魂であるところの私」ではなく
魂ではない記憶の状態の私なのである

そして私達は自分自身を思考の状態である人格やワサナを私だと思い込んでいるが
私とはその思考の記憶ではなくて、人格によっては知覚できない「純粋主体であるもの」なのである

正確には私・自我は思考そのものである、そして思考は人類共通のものである
そしてそれは個人人格と言われ、親から名前をつけられている思考の記憶に過ぎない
その思考が脳の中で、又は脳に結びついて「自分!」「私!」「私のもの!」「私の体」「私の考え」だというのである


確かにこの身体はこの私・自我ではないことは明らかである、このような究極の法則性を持った叡智の結晶体はこの私・自我が作り出したのではないことは、どんな子供にも分かることだ

ではこの私・自我である思考とは何か、
それは脳の条件付けによって発生している、人類共通の記憶の作用であり、その記憶の状態そのものであり、この私と言う「自己意識を持つ思考の記憶」とは、「思考の記憶である私」が造りだしたのではないことは明らかだ、脳を経由して生み出されたのだ

その思考の記憶状態そのものが恐怖であり、イライラであり、暴力であり、自己中心であり、愛のない状態である

それは私という普遍的な人類共通の思考によって作り出された意識の内容である、それが恐怖であり不安であり暴力であり憎しみだ


恐怖であり、安定を求め、良くなくなることを恐れているのは思考の私であり、その思考の記憶なのである

その思考が「自分は恐れている」と言っているだけで、その恐怖とは「自分は」ではなくて、人類の全く同一の思考そのものである

そしてそれが「私という分離した個人感覚・自我」の実体である

その記憶(恐怖におびえているこの私)は人類同一の思考なのだ!!

そして魂の私を、「私と主張している現在意識である(人類全体同じの思考に過ぎない)私」の集合意識が

覆い隠してしまったのである

だからこそ

それ故に、この人類同一である思考の記憶である私が、同じであるこの記憶である恐怖と憎しみと自尊心と不安とイライラと

苦しみと悲しみを抱きしめるのだ

何故ならこの私・自こそが恐怖だからだ

そして本来の内なる私を強く意識するのだ



















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