知覚の階梯
肉体の目が見えなくても、エーテル複体の目は機能している
エーテル複体の目が見えなくてもサイコノエティック体の目は機能している
サイコノエティック体の目が機能しなくても魂の目と知覚は機能している
それぞれの身体にはそれぞれの目があり知覚があり感覚がある
個体としての意識がある
ある質料が凝集して組織化したがゆえに発生している意識がある
机や椅子の意識、そして、その感情、その知覚、その記憶
お米や牛乳としての意識や、その感情、その知覚、その記憶
路傍の石や樹木としてのその意識や、その感情、その知覚、その記憶
昆虫や微生物や細胞としてのその意識や、その感情や、その知覚や、その記憶
エレメンタルや想念形態としてのその意識や、その感情や、その知覚、その記憶
エーテル界の生命体のその意識や、その感情や、その知覚、その記憶
アストラル界の大きな地球にも匹敵するような巨大な存在達のその意識や、その感情や、その知覚と記憶
地球外生命体のその意識や、その感情や、その知覚、その記憶
そして、私たちにはなじみ深い
この私たち人間の肉体としてのその意識や感情と知覚と記憶
各器官、各細胞としてのその意識や感情や知覚と記憶
高度に進化を遂げている頭脳のその意識と感情、知覚、記憶
この意識と感情と知覚と記憶といえるものは
人間の頭脳だけのものではなく
はたまた物質だけでもなく、
あらゆる次元の
精妙なるものにも、粗雑なるものにも等しく
同じように意識と感情と知覚と記憶はあるのである
全ての有情も無情なるものも、形あるものも形なきものも等しく「私」と思っており
その「私」の周りに意識と感情と知覚と記憶は形成されているわけである
これが現在の地球での質料あるものの状態である
が、ここで大きな疑問である
この「私」と思っている「私」とは、確かに意識と思考と感情と知覚と記憶は持っているけれども
良く其の「私」と実感し、知覚し、思考している実体を見れば、その「私」とはその「私」が生み出したものではない
この「私」という実体験があり確個として、ここに実感されている実在感もその感じている「私」が生み出したもの
ではなくて
「この私」という実際の感覚とは粗雑なあるいは精妙な物質の組織化によって生み出された結果として
発生してきた「私感覚」である
実際には、どんな形態ある組織体も、その組織体それ自体とは、この「私」によっては生み出されておらず
逆にその「私という実体感覚」はそのある形態を取っている組織体によって生じてきている意識であるに過ぎない
よく考えればすぐに分かることであるけれども、こんなにも素晴らしい組織された身体と頭脳が生まれたので
「私」という分離している自己感覚の意識と知覚と思考と感情と記憶は生じているのであり
その組織体が消滅したときにはその意識も消滅することであろう
この分離している自己意識は、その質料が組織化した結果生じている意識に過ぎないからである
人間の場合は
肉体の死後、肉体とエーテル複体は消滅するが
暫くしてサイキック体とノエティック体のある部分は消滅し、
ある部分はワサナとして残り、
ある部分はコーザル体に収納されると言われている
そしてコーザル体に収納されたサイコノエティック体は次の生にも引き継がれるだろうと
さらにこのコーザル体は魂に収納され、魂は次の生を備えるだろう
この時点で私たち人間には多くの身体があり、そして真我と繋がっている魂の意識がある
真我とはもちろん人類全ての「私」達を生み出した、根源のただ一つの私であるだろうからして
この真我の私には全次元とあらゆる次元での意識体の意識と思考と感情と記憶が含まれていることだろう
この真我の内側にある各組織体や個体の物質などから発生している意識や思考と
この各組織体、物質を構成している分子や原子や素粒子などのそれ自体の意識や思考は全く異なっている
と言うことではないか
ここのところは分かり難いところでないだろうか
それぞれの全ての作られてるものであるそれ自体とは完全にただ一つなるものそれ自体であるにも関わらず
その作られているものの意識とは、それである被創造物から生み出された分離意識で動いていると言うことである
全てはただ一つの私であるにも関わらずに、そのただ一つの私が創造している、又は顕現しているものは
「自分は他と分離している実体の私」だと思ってしまっているのだ・・・と私には思われる
この現実の文章を書いている私とは、もちろんこちらの「自分は他と分離している実体の私」側の
意識であり、知覚であり感情であり思考であり記憶ではあるが
この「自分は他と分離している実体の私」は形象や質料や物質が組織化したときに発生している意識なので
この形態が解消するか元素に還元するときには消滅することだろうと思われる
しかしこの「自分は他と分離している実体だという私」を生み出している、形態と質料と物質を生み出したものは
分離と、自と他の区別を超えて、ここにあり、普遍であり、不滅であることだろう
生み出されたものは分離している感覚を持ち生まれ死滅するが
生み出しているものは分離しておらず、一つであり「真の私=全体」であることだろう
そしてその生み出しているもののその意識とは「見るものは見られるものである」であることだろう
その意識とは主体と客体が分離していないことであろうし
比較も判断も、評価もせずにただただ見守っていることだろう
その意識はこの創造されている「組織化された物質」の意識では全く推測も出来ないし、することは不可能で
はあるが
その意識、それは時間と空間とを超え、次元を超え、地球を越え、宇宙を超え
自と他の分離を超えている意識であり
この生み出された「他と分離している私の意識」を包み込んでいる愛の意識であることだろう
それこそが多くの覚者が実感され示されている「真我」の意識であることであろう