死者に死者を葬らせよ
これはキリストの有名な言葉であるが
マクドナルドベインは「キリストのヨーガ」のなかでこのことについて言及している
この本の中で、彼は、「私たちのいるところ」には死者はいないと言っている
私たちのいるところとは、いわゆる「此処」といわれている「今・此処」である、「真実の領域・次元」だと思う
それは思考と概念を寄せ付けないところ
「思うこと」や私たちの「推測・想像」では想い測れないところ
キリストは其処即ち「今・此処」の此処を私たちに示したのであろう
聖書は概念でそれを「神の國」と表現している
しかし
私には想像だにできないが、「その國」へ全ての人が来ることを心から深く望まれているのだろう
そして、「そのところ」には死者はいないと言われているのだ
では逆に言えば、死者のいるところは「そのところ」ではないということだ
マクドナルドベインはだから
そこには死者はいないといったのだ
だから私たちは有機体を離れて、死後
死者達のいる場所に行ってはならないということだ
死者達のいる場所とは、勿論、死後の世界であり
虚構のエゴ、人格、個人が継続しているそれらの既知なる領域である
その「虚の領域」に行ってはならない、と上江洲義秀先生も常々言っている
私たちが出てきた場所に戻りなさいと
ということは、私たちは霊界という領域からきたのではないと言うことである
その死後の世界、幽界・霊界という人格や個人・という死んでいるもの、の領域は
「私たちのいる領域ではない、」とマクドナルドベインに接触している方々は言われている
その昔、CBAにコンタクトした高度に進化した宇宙の方々が幽界や霊界は、この地球独自の未発達のゆえに仮象の世界だ、と言われたのを思い出す
覚者の方々は、有機体を持っていない状態で、それらの虚の仮象世界にいるのではなく「此処」という「神の國」である次元にいるのだと言うことがよく分かる
其処には死者はいないのだ、其処は死者である人格や個人というエゴの残滓は存在することが出来ない、といわれる、そこは高い波動の次元であるようだ
どうやら物質界だけが、清濁混合して存在できる不思議な領域であると言うことらしい
ということで
私たちは有機体を離れた後は、その人格と個人というエゴの残滓が有る限り、その死者のいる領域に行かされてしまうと言うことだ
しかし
この今いる、この物質界で、その人格と個人というエゴの残滓が私たち自身から脱落しておれば、マクドナルドベインたちのいう死者のいない、死んだことのない、生まれたことのない方々のいる「そのところ」に戻ることが出来るのかもしれない
ここでマクドナルドベインの「キリストヨーガ」から、そのことを言及している箇所を紹介したい
「君が持続したいと願っているのは、君が知っているところのものである。
もし注意深く見てみるならば、君が持続したいと願っているのは、君の知らないものではないことに気づくであろう。
もし君がそのことを明らかに正見するならば、その真実なることが分かるであろう。
従って、君が抱いているのは、単に君の思考−感情であって、それが君の持続したいと願っているものなのだ。
それというのも、君はその他のものを何も知らないからだ。
「君が『知られざるもの』を知らない以上、明らかに君が持続させたいと願っているのは、『知られているもの』である。
そのために、君はその『知られている』がなくなってしまうのを恐れているのだ。
しかし、持続するものが終わったときに始めて実在が現前するのである。
しかし、君は終わるのを恐れる。
それ故に、死を、死ぬことを恐れる。
君は昨日より、今日、明日へと続けていきたい。
その為に君は理想郷(久保注:幽界や霊界の)を築き、活発々たる生ける現在を未来の生贄にし、持続したいとの願いゆえに、久遠常住の真我への自覚を妨げてしまう』
「さて、持続するものは明らかにそれ自身を更新することは出来ない。
瞬間より瞬間にわたって常在するもののみが、瞬間より瞬間にわたって再生をし、更新する。
その中には何らの記憶も、何らの過去も、何らの未来も、何らの善も、何らの悪もない。」
「もしもわれわれが問題を綿密に調べてみるならば、われわれは持続するものは実は、さまざまな形をとった記憶であること、及び君が記憶にしがみつくからこそ、君は死ぬことを恐れていることが分かるであろう。
では、記憶即ち自我は時間に所属するものであるがゆえに、時間を超越するものが現前する前に、自我は死んでいなければならない事が分かるであろう。」
「心は時間を超えたものを公式化したり、考えたりすることは出来ない。
それは時間の、過去の、結果だけしか知ることは出来ない。
君らが読むもの、考えるもの、信じるもの、即ち心は昨日と今日と明日とについて定式化する。
しかし、心はこの一瞬一瞬を定式化することは出来ない。
常在なるものの中に生きれば、昨日も今日も明日もない。
ただ今があるだけである。
ゆえに、心は終わりを恐れる、昨日と今日と明日とにしがみつき、自分自身の信仰と理論にしがみつくからである。
かつまた心は不安である。甲の観念から乙の観念へと移りやすいからである。」
「君らにとって困難なのは、自分が蓄積してきた一切のものに対して、昨日の一切の体験に対して、自分の信仰に対して、自分の観念に対して、自分の望みに対して死ぬことである。
しかし、実はそれが死ぬことではないのかね。それに対してこそ、君らは死ぬべきなのだ。」
「君らの知っているものは、『知られているもの』を超えて、時間を超えている『知られざるもの』を開示することは出来ないのだ。
話を進める前に、君らがこのことをハッキリと理解したかどうかを知りたいね」
私は答えた。
「はい分かりました。わたしが次々と各瞬間毎に過去のものに対して死んだとき、そこに『知られざるもの』『実在するもの』が現前いたします。
持続するものはけっして真理−真実なるもの−知られざるもの−新しきものを知ることは出来ません。
それはそれ自身を投影したものだけしか、知ることは出来ません。
人が時間の中に生きると、昨日、明日の方が生ける現在(それのみが創造します)よりも大事になります。
われわれは過ぎ去った瞬間に死に、生ける現在に生きなければなりません。
そのとき始めて死の中に生があるのです」
「その通り」と師は言ってから、また話し続けられた。
「もし君が自分の心の中を調べてみるならば、生ける現在の中に生きるならば、昨日も明日もあり得ないことが分かるであろう。
これが本当の活動であって、記憶の結果や昨日の結果である反動ではない。
君はまた、久遠なる生ける現在の中には死者のいないことに気づくであろう。
それゆえにこそ、イエスは『死者をして死者を葬らしめよ』と言われたのである。」