二元の私と非二元の私


私たちは二元の私を、私と錯覚させられている。若しくは錯覚している。

この二元の私とは思考している私、感じている私、感覚を自分の感覚と錯覚している私である。
思考や感情や欲望を自分の思考、自分の感情、自分の欲望と錯覚している私である。

また、それらの思考や感情や欲望に対して、非難したり、同一化したりしようとしている私である。
見ている私、成長している私、良くなる私、認識する私、理解する私、知る私、又は知っている私、体験する私、記憶する私、輪廻している私、意識している私、認識可能な主体と客体である私、神が自分以外にあると思っている私。
内部である客観世界・宇宙を自分の内部ではなく外部と思っている私であり。
私と名乗っているけど虚偽の私である私である。
その私はマトリックスの私である。
「存在していない私」と覚者によって云われている私である。
私ではない私である。それが二元の私である。



「非二元の私」とは、この二元の私を成立ならしめている私であり、この「非二元の私」がなければ、スクリーン上で意識されている二元の私は存在することすらもが出来ない本当の私である。と云われている。
スクリーンがなければ上映は出来ない。
鏡がなければ鏡を濁らせ曇らすことすら出来ない。
窓がなければ窓を覆うことすらもができないからである。

また、この「非二元の私」とは、
スクリーン上に映されている、この二元の私にとっては、知ることや、それを意識することや、理解することや、体験することや、それに成ることは出来ない。至ることは出来ない。
この本当の私とは観察することも、推測することも出来ず。
時間と空間である認識形式である、この分離二元の私にとっては、「非二元の私」は認識することは出来ない。
逆にこの時間と空間の認識の形式である二元の私が認識出来るものは全てが、「非二元の私」ではない。といわれている。


敬愛するニサルガダッタ・マハラジはこのことを、以下のように云っている。

「観察可能なものは私ではない」

(久保注:観察と云うこと自体が二元である「虚偽の私の領域」の中のことであり、主体と客体の分離という虚偽空間の中で起きていることである)

「私とは観察可能なるものの彼方にある」

久保注:観察可能な私とは、スクリーン上に投影され映像されている私であり、この虚偽の私の特色とは、分離時空間内での、客体である見られる私であり、嘘の主体である見ている私である。
この偽の私の認識形式が主体と客体とに分離するという方法、即ちマトリックスのやり方である)


「私が知ることが出来るものは、全てが私ではないものだ。私とは知ることではなく在ることである」

(久保注知ることや、体験すること、知覚すること、記憶すること等はマトリックスである二元性のやり方、即ち主体と客体を分離して認識する方法であり、真の私であるところの非二元の私である非思考、非対象、今、ここ、あるがままという、沈黙での方法ではない)

「欲望・恐怖・困難・喜び、それらは‘現れる対象であるあなた’がいない限り、現れることは出来ない」


(久保注:スクリーン上に「現れてくる《対象であるあなた》」
とはこの二元の私であり、偽の私である、この偽の私がスクリーンに上映され、投影されて私だと、現れて、その結果、私自身と錯覚されるのである。
そしてフィルム若しくは根源からスクリーン上に投影されたこの「現れる対象である私」がいなければ、この偽の私が知覚する欲望や恐怖や困難や喜びも認識されることはないと言うことではないだろうか。ラマナ・マハリシの言う根本の第一想念・私が始めに出現し、そのあとにそれによって認識される第二想念が続いて出現してくるということだろう)

「あなた自身ではないものに注意を払いなさい」

(久保注:あなた自身ではないものとはこの意識の中身であり、このスクリーン上にやってきている私という意識である。
このスクリーン上の私を認識し、その私に対して非難したり、「これは良くないから良くならなければ」ならない、この自分を解消しなければならない、この自分を終焉させなければならないと思っている私である。
スクリーン上のわたしという意識で認識可能なものは、
根源のプログラムから投影されている映像であり、
更に、この映像の私に反応して、非難したり、逃避しようとしたり、同一化しようとしたり、良くならなければとか、努力して、より良くあろうとか、進歩しようとか、自我が終焉しなければなどと、努力する私であり、
畢竟するに、この努力する私も映像の私に反応する、「映像の一部」である)


だからニサルガダッタ・マハラジは続けてこのように云っている

「あなたの思考を観なさい、そして思考を観ているあなた自身を観なさい。全ての思考から自由になった状態が突然に起こるだろう」

(久保注:スクリーンもしくはこの無限空間の窓(観照者の窓)に映し出されている思考や、感覚や、感情や、欲望を顕微鏡で対象として積極的に見るような方法ではなく、極度に研ぎ澄まされた受動性でもって観ること、
そして、それらの思考や、やってきているものを『観ている私』、即ちそれらに反応するマトリックスの私、二元の私、輪廻している私というものを更に観ていることは、その観ている二元の私からも、その二元の私が観ている思考からも自由になった状態が出現するといわれているのだ)

ニサルガダッタ・マハラジは言われる

実は、神とは、この本当の私であり、この二元の私を支えている非二元の私であると。私が神なのだと。
なのに、それを何処か、私以外の超越した存在であると想像して、対象として探し回っているのを止めなさいと、云われている。

神は私であり、主体が神なのだと。

神とはこの本当の私以外には存在しないと。

「私が神である」と。
しかし、これは非常に誤解されやすいし、誤解して取られ易いので最高の注意をしなければならないところではあるけど、

私たちは実は神とは分離しておらず、一体で一つであり、神そのものである。と

なのに、この「観察するものと、されるものである意識」というスクリーン上を覆っているマインド、

私たちは、このマトリックスという二元性・分離性(映像)によって、神は自分ではないと思わされている。自分は身体だと思い込んでいる。

そしてさらに自分は魂であって、時間をかけて成長し、進化し、そしてやがて神と一つ成ることが運命づけられている「神の子」だと思い込まされている。

けれども、これこそがマトリックスである、嘘ではないだろうか。

敬愛しているニサルガダッタ・マハラジは言われる

「神はわたしであり、私以外に神はいない」と。

「あなたは神であり、神はあなた以外には存在しない」と。あなたと私は一つであり。神そのものであると。

ここでの、この私・あなたとは勿論、本物のわたし・あなたであり、未知なる私・汝であり、今此処に在って、このスクリーン上の虚偽の私を支えている非二元の私・汝であるけど



現在の意識のスクリーンに上映されている私とは、根源からのプログラムにしたがって投影・映像されている私であり、そして、その映像に反応している自我の私であり、それらは共にプログラムからの映像の私である。

その映像の私こそが現実に認識し、認識されるスクリーン上の私、即ち行為して、自由意志を持ち、輪廻して、カルマに束縛されてはいるが、いつかは神と合一する魂である私である。

この魂の私は私ではない。

この「真の私と言うスクリーン」上に、根源によって「投影されている私」というものが、

頭脳によって意識し、意識されている私であり、

客体として意識されている偽の主体である私である。



更にニサルガダッタ・マハラジは言う

この内部に認識される私とは全てが私ではないと、

即ち内部にあると思い、思われているこの私とは、認識する私であり、認識される私である。

やってくるマインドであり、そのマインドに反応する自我でもある。

この私とは内面に於ける私の意識内容であり、更に、私の意識内容に対しての「良くならねば」「進化しなければ」「真我実現しなければ」「努力しなければ」と思うところの

「意識内容」が作りだした、それ自身の反応であるところの偽の主体でもある

この内部に認識している私も、その私によって認識される私も、(体験している私も、体験されている私も、体験も)全てが私では無いといわれる

即ち内部のものは外部であると、内部とは外部であり、内部は私ではなく、外部という私ではないものであると。


そして、この逆に、外部であると思われている世界や宇宙は実は内部にあり、
頭脳の巧妙なマトリックスによって(若しくはマトリックスという二元性が頭脳を支配しているので)

私たちはこの世界や宇宙が自分の外部にあると思い込まされているに過ぎないと云われる

世界や宇宙は私の内部にあったのだ(世界や宇宙や出来事や偽の私とは頭脳を通じて脳内に投影されているもの)

世界や宇宙は私の内部にあるのに、マトリックスの力によって、世界と宇宙は自分の外部にあると思い込まされているのだ。

全てのあなたであるわたしが(全ての私である人類兄弟が同じマトリックスの幻想によって頭脳を支配されている)嘘を夢見させられているのだ。

聖なる催眠によってそのように仕組まれ、現象界が運営されているのだ。

実際には、世界や宇宙は真の私自身そのものである。それらは非二元の私、本当の私、私の内部にあるのだ。

それをマトリックスという二元性の幻影の力によって、世界が外部に有り、しかも、この世界というものが不完全であり、飢餓が蔓延し、果てしない戦争や、筆舌に尽くしがたい悲しみや苦しみ、そしてこの現象世界とは全てが自分とは分離している世界だと思わされている。
そしてそのように、見させられて、感じされられて、経験させられ、思わされ、最後のとどめは、次元を超えて魂として輪廻をしているのだと認識させられているのだ。

そのように私たちはこの聖なる幻影であるマトリックスという二元の私によって騙され続けている。

自分が全体から分離し、ちっぽけな存在で、自分は肉体や幽体や霊体を持っている輪廻している魂であり、いつかは時間をかけて、上昇して神の元に戻るのだと思い込まされているのだ。

それは嘘だ。

既に、私たちは一つで一体なのだ、既に全体であり、無限である神なのだ。

とそのようにニサルガダッタ・マハラジは言われる。


外部である世界や宇宙とは、実は内部であり。、私たちとは、個人や分離した魂ではなく、全体であり、全ての全てであり、ただ一つなるものである。と

即ち神そのものであるのに、輪廻している魂だと思い込まされている。

私たちは魂だと思い込まされている。個別的な進化し、最終的には父なる神の元に戻るように運命づけられている存在だと思い込まされている。

進化している、そしていつかは父なる神の元に戻ると思い込まされている。

それは違う、違うのだ。それは嘘なのだ。

実は、今此処に、既に私たちは分離しておらず一つであり、私が神なのだ。とニサルガダッタ・マハラジは強調されているのだ。









戻る