考えているものとは誰か(体系的宇宙観の虚偽)

どうして考えているのか?
考えているのは誰か?
真の私とは考えることをするのだろうか?


この私は何故目を瞑ると、見えないのか?
瞼を閉じると何も見えないと言っているものとは誰か?私か?
真の私は見ているのではないだろうか、分離せずに一体として!
見えていない者とは記憶であり思考ではないのか?
だから、肉体と同一化している私ではない者が目を瞑ると見えないと言っているのではないか


やってくる出来事を心配したり、将来の事を案じたり、体のことを悩んでいるのは誰であるのか?
それは私か?未来を心配する過去である記憶とは私であるのか?
過去のことを思い出して怒ったり、いつまでも虜になったり、悔やんだりしているのは誰か?
真の私であるなら、時間の中にいないので
将来を案じることもなく、過去を思い出したりすることもないことだろう
記憶がないのであるから、思い出すことも、将来を心配することもないだろう
では記憶があって、意識と意志のある者とは私ではないのではないか


何故、全てのことを、外部のこととして見ているのか、自分と分離しているものとみているのか
世界を外部に、宇宙を外部に見ている私とは私であるのか?
何故に怒りや、恐怖や、運命や、健康や、経済も、出来事も含めてそれを外部に対象として見ているのか
どうして、自分と分離した対象として自分以外のことと感じてしまうのであろうか?
それを感じているのは果たして私であるのか?
全てを対象として知覚し、経験しているのは記憶ではないか
真の私であるのなら、記憶は存在せず全てが私であり、そしてその私の中には秩序しかないと言われている



何故対象として見ているのか
自分の中も外も何故対象として見ているのか
それを対象として分離して見ていると言うことは
その見ている者は、対象として分離している思考でありマインドであり時間だと言うことである
それはマインドであって「分離していないと気づいている気づき」ではないことだろう




何故私は眠っているのであろうか?
眠っているものとは私だろうか?それは記憶なのではないだろうか
何故私には目がないのであろうか?
その目が開いていないのは、思考と言う記憶でありマインドなのではないだろうか?




どうして私は言葉を使っているのであろうか?言葉を使うのか
言葉や想念は思考であって、分離し分割する手段ではないだろうか
言葉や想念はそれは分離しており、言葉や言語想念自体が分離しており二元葛藤である
ところで真の私とは言葉を使って認識するのだろうか
真の私は言葉を超えていると言われているのではないだろうか
言葉や想念や思考を使っている者はその言葉であり想念であり、思考である
それは私ではないものではないか?





この言葉であり、言葉でしかない者が
ベットから毎朝、目を覚まし、そして夜眠り、夢を見て、熟睡する、気づきがないままに
この気づきではない者が自分の外部に全てのことを対象として認識し
世界や宇宙を自分とは別だと信じている、このわたしとは誰か?果たして私なのであろうか
それは記憶であり、プログラムであり、条件付けそのものであり、思考なのではないだろうか
真の私であるなら言葉を介さなくても、一瞬に理解していることだろう
真の私であるなら世界は私の中に在ると覚者のように言明することだろう
真の私であるなら、全てのことは自分と分離しておらず、世界の苦しみは私の苦しみだということだろう
そして
真の私であるのなら思考やマインドがあることはないだろう覚者のように
眠っている自分、目を覚ましておらず転生している私は私ではないとハッキリ言明することだろう
第三の目が開いていない私とは、私ではない、私であるなら第三の目は開眼している事だろう
いな第三の目そのものであることだろう





私のことを個人や人格であり、段々と良くなって来ている魂だと感じている者とは誰か?
それは時間であり、プログラムであり思考でり、その記憶の自我ではないのか
それは記憶そのものではないのか
真の私であるのなら
記憶がないことであろう
個人ではないことだろう
人格ではないことだろう
他人やすべてのものと分離できないことであろう
過去や未来がないことであろう
思考や言葉ではないことであろう
瞬時に全てを理解しており、ただひとつであることだろう


記憶が残存し
過去が残って
未来を案じている私とは私ではないことだろう
私であるのなら記憶もなく、過去もなく従って未来もないことであろう、時間ではないから時間は死滅しているはずだ
この過去があり、未来がある私とは、プログラムされたトリックの私であるのではないか
この私は生まれ進歩しそして消滅するホログラムであって私ではない
転生して輪廻して悟りを開く私は私ではない
それはプログラムであり、ホログラムだ



私と独立して(私の内部ではなく私とは別に)世界が存在しており
私と宇宙とは別で、宇宙が観察対象として存在していると思っているわたしとは真の私ではなことだろう


真理や絶対である実在を
論考したり思索したり思考したり証明したりしていることは記憶でありマインドがしていることだ
真の私であるのなら、究極の実在を思考したり、信じたりはしないであろう、思考が無いからであり
信じることや疑うことがないからである
言葉や概念や思考で以て論考したり論究したりしないから体系化しないであろう
(覚者や聖者は決して体系化したり学問的に論述したりしていない、論述し体系化している
ものはマインドの領域内の錯覚に支配されている記憶という自我であろう)


真の実在を思索している者はマインドであり思考であり、時間であり、記憶であって真の私ではないので
その真の私ではない記憶という自我が思考を使って実在を哲学化したり、体系化したり、学究したりして
膨大なる宇宙の体系を打ち立てるのである



その実在を思索し、思考し、対象として体験していることが、時間と云うマインドの行っている
特徴であり、そのマインドの行っているカラクリである、それは実在ではないことだろう記憶され体験されるからである


真の実在は体系化されないし、記憶されないし、記述されることは決してない、体系化することがマインドの特徴だ
何故なら、その真の私それは思考やマインドや時間に属していないからだ、だから体系化していないのだと

真の実在への理論的、体系的考究は間違っている

世界や宇宙や次元を対象として自分と分離して捉えること自体がマインドであり間違っている
世界や宇宙や次元は対象ではなく私と分離していない
現象は実相から見れば実相なのだ
現象が、実相と現象を分けて説明しているのだ
悟った覚者は実相世界と現象世界と言う分離がないのだ、全てが実相なのだ、実相しかないのだ


真の私への対象としての段階的現象学的な方法は思考の範疇内、マインドの範疇に有り

その方法で進んでいくことはマインドの虜となってしまう
体系的宇宙学は体験経験記憶であって、その記憶は体系の中での経験を生みだしマインドの領域に縛られるのである

それはあくまで自分と分離した対象世界であるから、それは架空の世界であると言われlている

哲学的体系的な宇宙観は自他の分離の上に成り立っている架空であると言えるのではないか


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