ある教えから


私・魂は各諸体の松果体から各諸体の頭脳などの各細部に入り、そして肉体の脳下垂体などの肉体の頭脳内に於ける

「現在意識の座」にも定着した


そして、そこで繰り広げられている五感、知覚、経験、出来事、肉体、思い、欲望、思考、個人・人格などをみて

私・魂は「肉体は自分」だ、「個人・人格は私」だと思ってしまった。

自分を生まれてきた男又は女で、何歳の○○という名を持つ肉体であり、この個人の私・人格を「自分」だと思い込ん

でしまった。


だが、肉体とこの人格とは、まさに神の劇場の舞台のストーリーであり、神が肉体と人格を使って行為している

のにもかかわらず私・魂は自分が行為していると錯覚してしまった。



では、実際に行為しているのは誰なのであろうか?

それは、根源であり、神である根源である。

※この認識は現在の私では理解出来ない。この目には戦争があり、悲しみに満ちているからである。
神の目で見るとき、全てが完全完璧であることが理解されるが、この現在の私はこの目がないので
戦争と悲惨が見えている


では、行為していないのに、行為していると思ってしまっているのは誰か?

それは神である真の私からの私・魂が肉体に入って肉体を自分だと思ってしまったのである。

※マーヤは根源と言われており。このマーヤは「神我であるブラフマン」から発生しているので
マーヤのことを神の遊戯、神の演技など言われているが、ブラフマンという神我の意識であるとき
それはハッキリと認識されると言われている


その間違って「自分が行為している」と、そのように思ってしまっている私とは勿論、私・魂であるが

その私・魂とは私・魂の内奥の真の私・真我でもあるのである。


それ以外に私がいるのであろうか?

ではそれ以外に私がいないのに、私ではない私を私だと思ってしまっている私とは誰か?

それは私・魂である。



では、この日常生活で、私、私といって忙しく毎日働き、行為している個人・人格であり、魂が入っている肉体で

神という根源によって使われており、肉体と一緒に行為していると思っている私とはだれか?


それは、神が諸身体を使って演じておられるこの肉体と自分を同一視している人格や個人の私の事であるが、

その人格の私も、この脳にある現在意識の座で「この私こそ自分だ」と思っている。


その個人・人格とは神の道具であり、神はこの諸身体と、

そして人格であり「親によってつけられた名前を持っている個人」の両方を使って演じている。


しかし、それらの人格・個人とは

私・魂が諸身体に入ることによって、魂のコーザル体から継続している現在意識の私であり

私という自己意識を持ち、記憶であり、思考と感情を持ち、自由意志が有り、自分が行為していると固く信じている私である。


従ってカルマの担い手である私、

即ちそれが現在のパーソナリティー又は個我である私である。

現在ここでホームページを読んでいる私でもある。




けれどもその「現在の私」とは私・魂ではない。

私・魂が身体に入ることによって、継続している私なのである。

その継続している現在意識の私とは、私・魂とも複合しており、意識が複合している。



現在の個我の私は、この私・魂が肉体に入って、諸身体のことを自分だと思い込み

その身体に入ったことによって生み出された記憶である継続している意識・心なのである。


私人格・個人という自分自身を「私とはこの私しかいない」、「この私が私だ」、

「だから私はこの私を自己観察しなければ」などと間違って、思い込んでしまっているのである。


そして更には、その継続している私にも自由意志が有り、思考と感情があるが故に自ら、思考し、感じ、エレメンタルの自我

を創り出し続けている。



結局のところ「私は誰なのか」を忘れているのは「自分・私・魂」なのである。


この魂の私が、現在意識の座に於いて現在の人格・個人を支え、継続させていて、一緒に実在しているからこそ

クリシュナムルティーもラーマクリシュナもラマナ・マハリシも私達に懸命に「見なさい!」「在りなさい!」「あるがままで

在りなさい1」と語りかけているのである!。


この私・魂こそがクリシュナムルティーによって「思考なくしてあるがままを見なさい!」といわれている私であり、また見る事の

出来る真実の目を持っている私である。


私・魂である自分は、内奥に於いて神という真我の独り子であるにもかかわらず、同じく他の独り子達とひとつではない

と錯覚したのだ。


私・魂が脳に入ったことによって、肉体の目に取って替わられてからというもの、私・魂は自分を忘れ、自分は誰かを忘れ、

自分とはどこから来たのかを忘れ、親である真我・神を忘れたのだ。


私・魂は、自分自身であることを忘れ、自分が真我から来ていることを忘れ、自分の内奥は「全ての私・神の子」である

ことを忘れたのだ。


この忘却は、私・魂が肉体に結びついたときに、目が肉体の目で覆われてからというもの、肉体は自分だ、人格だ

記憶の私は私だ、この知覚は自分の知覚だ、この思考は自分の思考だと信じ込んだときから始まっている。



そして更に、その魂のコーザル体が輪廻していることを通じて、この錯覚は延々と続き、夢から醒めることがなく、夢が

継続している。


この肉体や諸身体が行為し、人格が「自分が行為している」と思っているのを見て、

自分を人格と同一視ししてしまい、自分が行為していると信じ込んでしまったのは私・魂だ



この五感とは、身体に起きている肉体特有の知覚とは露知らず、自分が知覚してると信じ込んでしまったのは私・魂だ


この思考とは肉体や諸身体や人格にも起きているし、私・魂以外からもやって来ているのに、全ての思考を自分が考え

ていると思い込んでしまったのは私・魂だ


この出来事も肉体のカルマも人格に因っているものであるにも拘わらず、

「自分が行為していると思っている人格・個我」を私だと信じたが故に

その出来事とカルマに巻き込まれて、苦しみ、悩み、絶望し、悲しみ、怖れ、藻掻いてしまっている

のはこの私・魂だ。


その結果、私・魂は、カルマは自分に起こっていると信じ込んでしまったのだ。


カルマや出来事は私・魂に起こっているのではなくて、神の演技である人格に起こっているのである。


そして、そう思い込むがゆえに、この私である「私・魂」はさらに考え込み、悩み、苦しみを味わって、現在の私と

自分をさらに同一視し、数多くのエレメンタル(ワサナ・自我群)を生み出してきてしまった。


それらは結局、感覚と知覚が大きく左右している。この五感という知覚からの解放がこの錯覚からの解放でもある

知識で知るだけでは理解ではない。五感が開けて六感へ、そして更に七感へ、そして八感へ、九感へと解放され

なければ、それはいつまでも机上の空論で終わってしまう。




話が元に戻るが

それらは全てが、「自分である私・魂」が「自分ではないものである人格と肉体」を自分だと錯覚したことから始ま

っている。


自分である私・魂は全くもって「自分ではない肉体」「自分ではない人格」を、自分だと思い込んでしまったのだ。

自分ではない五感を自分の知覚と信じ、「自分が知覚し、感じていると思って」しまった、

自分が、この人生劇場で生きて、行為していると思い込んだのだ。


そして、その五感がゆえに、自分とは万物と分離していて

自分は他人やすべてのあらゆるものとひとつであることを忘れ果ててしまった。


それというのもこの肉体や諸身体の五感知覚は、分離と二元から成り立っており、

見ている私と、見られているもの(対象であるあらゆるもの)を別々だと思わせてしまうからである。

それが五感である。五感がゆえに、私・魂は更に深く深く私は個人として分離しており、全てのものではないと

固く信じて思うようになってしまったのである。



「私・魂の内奥」を知る事が真の私に帰還する事である。

私・魂が自分である私・魂の内奥にへと眼を転じるとき、

そこには真の私が私であり、そこには見る者と見られる者の分離が無く

全ては一つであり

世界は私であり

宇宙は私である

それが私・魂の内奥である・・・と、それが私である。


そしてそこから、さらに、何故に、神の劇場でこの様な複雑なことがあるのだろうかと魂の私が考えるとき

それは、この神の劇場での役割があるからこそ私・魂は人格の私を与えられているのだと言うことが分かる。


全ての私・魂がこの現象界に接触している理由は、全ての私・魂が真の私と一つになり「生命の樹」へと帰還し

人格の私、現在のパーソナリティーの私も私・魂とひとつになることが神の劇場の最終ストーリーなのである。

その物語を素晴らしく完成させるために、私・魂は現在のパーソナリティーを伴ってここ現象界に来ているのでは

ないだろうか・・・


〜或る教えから意訳による






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