お彼岸

B子さん:本日はお彼岸の中日なので、お彼岸にちなんだ話をしても良いかしらね

Aさん :幽界や霊界の方々のこと?

     君がいつも言っている肉体の頭脳以外の幽体の頭脳や霊体の頭脳のことかい?

B子さん:そうなのよ各体にも頭脳というのがあって

      その「各体の脳」と言うものが条件付けられていて、或る一定の波長しか受信できない状態の私達の頭脳では

      それを持っている幽界や霊界の方々も、私達と同じように頭脳の条件付けによって、或る一定の波長を受信し、

      そしてその各体の頭脳のプログラムに従って決まったようにしか条件反射することしか出来ないということ

      さらに、その各体の記憶というのは、頭脳だけではなくて各臓器など各細胞にも及んでいると云うこと

      そのようにして各体の頭脳の条件反射というものが、それぞれの頭脳や各身体に記憶されるというわけだとおも

      うのね

      そして、各人の人格や個性とは、それらの頭脳の条件付けによってキャッチされている思考と感情及び行為

      並びにそれらの記憶の反応のことであり、それらの反応が人格や個性の現在の「意識状態」と云うことでは

      ないかしらねぇ

      この物質界での記憶は肉体脳だけにではなく、死後にも存続している幽体(サイキック体・感情体)の脳にも、

      霊体(ノエティック体・思考体)の脳にも、

      そして更には、感情や思考を交えない純粋な客観的な記憶はコーザル体(原因体・自我本体)

      にもそれぞれ記憶されているんだと思うんだけど?

      貴方はどう思う?

      実際にはこの肉体とエーテル複体と幽体と霊体とコーザル体は有機的に結合していて、この物質界で私達が

      生活しているんだけど、肉眼や五感では肉体しか見えないんで誤解が生じているのよね

Aさん :そうだね、僕も大体そう思うんだよ、

      この物質界で受精したときに、母親の母体の受精卵の中で創られる身体は肉体だけではなくて

      幽体(サイキック体・感情体)と霊体(ノエティック体・思考体)もエーテル複体が同時に創られている、と言われてい

      るよね

      そしてその受精時に決定されるDNAプログラムは各体の頭脳の条件図付けとして、また設計図として

      観照者と根源によってプログラミングされ組み込まれているんだと思うよ

      そしてその時に同時に今までの転生の成果を携えてコーザル体(原因体・自我本体・霊魂)がその受精卵と

      結びつくんではないかな

      さらに10ヶ月の時を経て誕生するときにオギャーという吸気とともに生命を得て本当の私とも云うべき観照者とも

      この物質界で結びつくと云うことではないかと推測しているんだけど、どうかしら?

B子さん:そうね〜あなたの考えによれば

      例えば、人工中絶や水子の場合も、幽界では幽体として、幽体脳の条件付けによって(霊体脳・コーザル体自我

      記憶を携えて)プログラムに従って肉体と同じように成長を開始し、幽界での新しい生活が始まるという訳よね

Aさん :この肉体の死後のそれぞれの界での(幽界・霊界など三千世界と云われる)生活というのは

      再び物質界での新たなる転生のサイクルに入るまでは

      幽界では幽体の頭脳として、霊界では霊体の霊体脳として、結果である記憶の中で生活しているというわけね

B子さん:だから、それらの三千世界に於いては、自我・記憶とはそれぞれの頭脳の条件付けによってプログラムされて

      いる頭脳の結果であり、そしてまた目が醒めることなく霊界での生活を終えてまた物質界へ戻るときは

      各体の頭脳の記憶が自我だとしたら、それらの自我の記憶はコーザル体の中に集束されて、霊界から次回の

      転生時には再びある特定の母親の母体で受精した受精卵に瞬間的に宿るという事かしら

      (この転生の準備サイクルに入ったときに霊体の記憶の内、低次の記憶と高次の記憶に分類され、低次の人格の
      感情、思考記憶はワサナとなって霊的なプールで待機状態となるが、一方高次記憶は今生での成果として
      コーザル体に集束され、そののち一定期間を過ぎた後、指定された母体へ再び宿ることになる
      その時、霊的なプールで待機していたこのワサナである私達、人格は一団となって、その新に誕生した新生児の
      下部チャクラに結びつけられるという) 



Aさん :その自我の本体をコーザル記憶と言っていいのか僕には分からないけど

     ともかくその自我の本体は目が醒めず覚醒していないことだけは確かだと思うんだ

     何故なら自我の本体はマインドの記憶であり、そのマインドの記憶が意識しているだけであり、気づきという目が

     ないんだとおもうよ、

     さて、この再生の話しではなくて、霊界での話しに戻るけれど

     私達とはそれぞれの三千世界の中でのそれぞれの頭脳の条件付けの結果に過ぎない記憶だと言うことは

     頭脳は睡眠(ノンレム睡眠)を必要としているので、幽界や霊界の方々も睡眠を必要としていると云うことだよね

     だからそこではその頭脳が条件付けから解放されていない限りは、幽界や霊界でも、その階層にいる方は睡眠を

     必要としていると云うことなんだ

     ご存じの様に悟りの意識状態とは眠りのなかで眠りを凝視している意識状態であり、夢を見ている状態を

     凝視している意識として、さらには、ノンレム睡眠の様に熟睡時の深い眠りをも凝視している意識として説明されている

     ことからして

     霊界や幽界の方々も眠っていると言うことは、まったくそこではマインドとそれを受信している頭脳を超越している

     「気づき」が覚醒しておらず、頭脳の状態で有ると言うことだよね

B子さん:所謂この物質界と同じように、それぞれの頭脳が条件付けから解放されていないという事ね

     だから、その脳は調和して活動が出来る様に睡眠というものが必要なんだという事ね

     マインドから一時的に解放されて英気を養う為に頭脳は熟睡を必要としているのね

Aさん :その条件付けられている頭脳の状態と、その記憶の反応こそ現在の私達の意識の状態だけどね

B子さん:それの条件付けからの解放、頭脳の条件付けと記憶からの解放が瞑想が起きる条件ではないかしら

      それが瞑想ということが起こるためには絶対に必要な事ね

      瞑想は、記憶である個人や人格がすることではなくて、内在する真の私がしていることだとおもうの・・・

Aさん :それを君は本などで得た知識で喋っているのか、それと自分の実体験から理解したことで話しているのかが

     重要になってくるよ

     その理解が知識なのか、それとも実体験によって確認できたことかによって、大きく差が出来ると思うのよね

     僕は決して、君を非難するわけではないけれども、その実体験と云うことがあるかないかで決定的な差が生じてくる

     と思うんだ、もし実体験であれば、それは大変な変革の力であり、その莫大なる高次元のエネルギーがその

     再調整された諸身体と条件付けから解放された頭脳を通じて現象界に放出されていると思うんだよね

     そしてその時、観察者と云われている記憶である自我は消失し、観照者と云われる真の私が生まれているん

     だよね

     その莫大なエネルギーの有無と云うことによって、未知なるものを体験したものであるのか、それとも単なる知識

     や信仰の段階なのであるのかを判断する決め手になると思うね

B子さん:勿論私もそう思うのよ、だからそういう意味で言えば、あのクリシュナムルティーとは最大のエネルギーが放

      出されている経路だったわけだと思うし、実際、彼から流れていた高次元の「エネルギー・愛」はもの凄い

      ものだったとおもうのよね


Aさん :そのことで、このお彼岸に話が戻ると、その真の私のエネルギーが放出されている現象界の通路、若しくは

      扉である人の場合は、現象界に於いてもその影響力はもの凄くて、賢者の接近によって、その廻りが浄化され

      秩序が訪れてしまうと思うんだ、だからそういう人がいる時空間は高次元の時空間となってしまい、

      その人の肉体は三次元であったとしても、その身体を通じて高次元からの窓(フォースフィールド)が発生し、

      その三次元や四次元や五次元を部分的に高次元に統合してしまうのではないかと思うんだ

      そこの時空間の次元を一時的に高次元にしてしまうと云うことは次元の窓が開くと言うことだと思うんだ

      だから覚者の覚醒している目には、お彼岸の最中でも、迷った霊魂や苦しんだりする幽界や霊界の人の姿を

      見ることがないわけだよね

      悟った人の目には完全完璧しか見えず、全てはただ一つである本当の状態が現れており、そのお彼岸に現れ

      ているご先祖の方々や迷っている方々という記憶の世界が見えないという訳なんだ

      ご先祖の方々には大変に申し訳ないけれども、それはこの私もそうだけど、各身体の持つ頭脳が生み出した

      記憶、いわゆる主体というものであるところの私・人格・観察者というものは、真実の目の中では非実在として、

      存在していないもの、或いはマーヤ・幻想として既に消滅しているんだと云うことだよね


B子さん:ということはお彼岸で、ご先祖の方が、仏壇やお墓にお出でになること等が分かるという霊能者自体が、

     それを認識している、当の私という主体が「自我・霊魂」である、

     即ち各体の記憶の塊であると言うことなんだよね

     だから、その霊能者とは決して目が開眼していないと云うことなんだ

     そこの状態では真の私の目は誕生しておらず、

     瞑想をする主体である観照者は出現しておらず、そこの観察者と観察されるものが別々にあるという状態は

     それぞれの各頭脳の条件反応の結果であり、それぞれの頭脳からの記憶であるにすぎないと言うことだわね

     この各頭脳の条件付けが解消し、記憶が消滅しないかぎり本当の瞑想は起こるはずがないのかもしれない

     のよね



Aさん :僕は決して、吾がご先祖達の霊魂やお彼岸に来たりする霊界の方々のことを文句を言っているのではないよ

      ご先祖の方や、色んな幽界の階層で修行をしている人のことをとやかく言っているのではないんだ

      ただ、真実はそのような三千世界や霊魂、それはこの私をも含めて個別的な人格や個人というものは、

      マインドが生み出しているマーヤであって、真我の目には決して映っていないのではないだろうかと云うこと

      なんだ

      だからクリシュナムルティーやラマナ・マハリシ達は幽界や霊界のこと、そして霊魂のことを殆どまったく

      触れていないんだよ

B子さん:そのマーヤによって生み出されたマインドの中にだけ、この現象界も幽界も霊界も、分離している宇宙も世界も

      それを観察している観察者である霊魂も映し出されているのであり、

      覚者達の真我の目の中には本当の真実である「ただ一つなるもの」が見えているということなのね

      いや、見えていると云うよりその「ただ一つなるもの」で在るわけなのね

      それは即ち主体と客体が最早分離していない、ただ一つ、全てが一つなる本当の真実・あるがままが

      現前しているということよね


Aさん :けれど、僕は今朝、早く起きてお墓にお参りに行ってきたんだ・・

      だって、この現象界の仮想の私にとっては亡くなった両親の幽界での彼らの気持ちも分かるので・・・

      たとえ夢の中であったとしても、彼らを安心させてやり、満足させてやりたいと思うのよね

B子さん:ふ〜ん、なんだかその辺が二重基準の様で、すっきりとはしないけどね・・・・

      それは自己弁護するための詭弁ではないのかしら

      その霊界のことを気にしていることで貴方は目が開いていないことを証明しているわよ

Aさん :けれども、自分の事を肉体だと思っている幽界や霊界の人が自我・霊魂として、その起きていることに巻き込まれて

      幽界での出来事やら、その幽体のDNAに基づいている運命やら、果てにはその幽体自身と同一化して

      自分が行為して、自分が生きて、自分の人生だと信じている限りは、その彼らの信じている錯覚の中でしか彼らと

      接することが出来ないと思うんだよ

      自分が幽体で、自分が行為して、自分が生きていると固く信じている自我霊魂である私をも含めてご先祖に

      接するには

      彼らに愛情を持って、ただただ暖かく見ることが、ただただ抱きしめる事しか、かれらの言うことに耳をじっと

      傾けること、そして一緒になって、苦しみを味わうことしか、僕にはできないかもしれない

B子さん:そうね、それは何も、このお彼岸の期間に限ったことではなくて

     愛情を持って、この苦しんでいる霊魂という「記憶であり自我である私」を黙って抱きしめる事
     (この霊魂である自我はそれぞれの頭脳に起きていることを、自分がしている、自分が行為していると思っている)

     このことが重要だと思うわ

     幾生にも渡って輪廻を繰り返しているこの「霊魂である私自身・記憶」を抱きしめる事

     黙って、ただただ一緒にこの私自身を抱きしめ、その悲しみと、苦しみと、恐怖を、とことん味わうこと

     結果であり、プログラムであるにすぎず、投影されている映像の観察者と云われているこの「私自身」を抱き

     しめ、一緒に苦しみ、一緒に悲しみを味わない限りは、解放は訪れないかもしれないということよね


Aさん :そうなんだよ、このスクリーンに投影されている映像である人格や個人を観察しているものである観察者こそが

     自我・霊魂と云われている、この私そのものではないか

     この自我・霊魂と云われている私こそが観察者というものであり、

     その観察者こそが、それによって観察されるものであるところのマインドによって生み出されている結果だと

     思うんだ

     条件付けられている頭脳を通じて蓄積したマインドの記憶が「私・自我」の姿なのだと思うんだ

B子さん:それこそがこの私であり、お彼岸にお参りしている一般の方であり、そのお彼岸に霊界からやってきている方々よね

Aさん :この双方とも、マインドが各体の頭脳を通じて生み出した結果であり、記憶なんだ

     それは煎じ詰めればマインドも、その記憶である自我という霊魂も、そしてプログラムされ、条件付けられている

     頭脳も根源の映像ではないかと僕は思うんだ

     あのマトリックスの映画の最後の場面で主人公が死んで復活し、敵と味方だった預言者と設計者が談笑している

     ように・・・・

B子さん:こうして喋っている私とあなたも、この根源の映像の一部分であり、過去そのものであるという事ね

Aさん :そうなんだ、君の云うとおり、この僕も君も根源の映像そのものだよ、過去という時間が投影している虚像なんだ

      肉体ばかりではなく、幽体も霊体も、そして頭脳も、それらの頭脳の記憶である主体・自我という霊魂すらもが

      観照者である真の私の鏡の前を流れている映像なんだ

B子さん:そう、それを貴方が、知識からではなく実体験から話したとき、それは嘘ではなく、もの凄いエネルギーが放出され

      それがそのまま、大きな役割を果たしているという事よね

      残念ながら、あなたはいまのところは実体験から話していないで知識から話しているわ・・・




      















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