虚構の「自分・エゴ」も源泉からやってきた
この現在の自己意識・現在意識は大きくふたつに分けて、日中の覚醒意識、睡眠時の夢見の意識、であるが
それらの自己意識は全て、心というマインドである分離の二元性意識であり、
内と外とに分離して知覚、認識をしている主体であり、また客体でもある
また、それはマインドが条件付けられた頭脳を経由して集積された記憶の塊でもある
これが自己あるいは自我(エゴ)と呼ばれていて
「存在の眼」を覆っている、とラメッシは語る
「I AM=私は存在する」という、この存在の、そして生きていることの、非個人的覚醒の事実が個人のエゴによって覆い隠されている」(ラメッシ・S・バルセカール)
通常、私たちはこの自己即ち自我(エゴ)というものは、「源泉」以外の存在によって生み出された虚構・錯覚と思っているが、ラメッシはこの自我(エゴ)も源泉によって生みだされたものであり、現象界の維持進行の為に・プログラムされたものだといっている
(上江洲義秀先生は心とは神の道具であると言っている、従って自我(エゴ)とはその神の道具である心・マインドが頭脳を経由し、結果、凝縮された記憶の塊ということか)
一見すると相反するもののように見えることも含めて、全ての現象世界に顕現・具象化しているものは「源泉」の映像・プログラムであるということだ
自己である自我(エゴ)とはマインドという時間であり、欲望であり、恐怖であるものである
それは肉体と同一視している想念であり、その想念(恐怖)こそ恐怖から逃げようとしているものである。
自分が恐怖そのものであるにもかかわらず、自分から逃げようとしているのである。
それではこの意識内容である願望と、恐怖、意志、逃避、同一化などは、それは誰に起こっているのか
だれが錯覚しているのか
それは、勿論この私という偽りの自己・自我(エゴ)がである
この自己・自我(エゴ)は恐怖そのものの記憶なので、内部を外部に投影して恐怖を認識することができるし、知覚できるが、しかし、それを自分以外の認識対象や、外部にあるものと錯覚している
ではそれらのやってくるマインド・恐怖らは何処からやってきているのか
これは、根源からではないのか
これらのマインドも、それが頭脳を経由して集積された記憶である自我(エゴ)も、根源からやってきているが、それらは共に、既に内在し、かつ未知なるものであるところの「真の私」(I AM THAT)
ではない。
マインドと自我とは根源が現象界の為に使用している道具であり、これは既知なるものである、しかしこれらは未知なる根源ではない
根源とは,自我(エゴ)にとっては未知なるものであるI AM=真の私である
此処にニサルガダッタ・マハラジの弟子であり覚醒したラメッシ・S・バルセカールの言葉がある
『 エゴを受け入れなさい、エゴと戦ってはいけません。何故でしょうか?
それは、「あなた」がエゴを創造したのではないからです。
源泉がエゴを創造し、
そしてある場合において、源泉はエゴを破壊する過程にあります
仮にエゴと戦っても逃げることは出来ません、その抵抗自体がエゴです、エゴは冗談ではなく、簡単には諦めないでしょう
−途中略−
エゴが破壊されるようにしたいという欲望が、まさにエゴを生かし続けるのです
エゴは聖なる催眠です
エゴは、あらゆる物が生まれでたその同じ源泉からしか、生まれることは出来なかったことでしょう
物理的現象は、源泉からやってきました。
虚構の「自分・エゴ」も源泉からやってきました。
なぜ源泉は虚構の「自分」を創造したのでしょうか?
それは、「その自分」がいなければ、人間の関係が起こらないからです、
そしてその人間間の関係が起こらないと、私たちが知っているような人生が起こることが出来ないからです。
あらゆることは、ただ起こるのです。
「自分」がそれをやっていると考える個人の行為者がいる限りは、「その人」は責任と結果を考え、それを心配するはずです。
でも「自分」が行為者であると「自分」が感じることなく、手許の仕事に注意を与えることは可能であり、それこそが機能する心(working maind用語解説参照)です。
本当の問題は「自分」は決して行為者ではなく、することはただ起こるだけである、という完全な無条件な受け入れにどうやって到達するのかということです。
貴方が「自分」がやっていると考えている全ての行為は、貴方ゆえにではなく、貴方にもかかわらず起こるのです!!
これらの自分と他人という異なっている外見の別なく、通じて機能しているものは同じエネルギー、同じ源泉、同じ神です。
すべてのこれら創造された対象物を通じて、同じエネルギーは機能していて、それ故に何の分離もないと言うことです。
ある人の場合、怒りがわき起こります。
別の人の場合は怒りがわき起こりません。慈悲が起こります。
何の違いもありません。何故なら、わき起こることはプログラミングに基づくもので、それに対して人は何のコントロールも出来ません。
エゴは何もしていない
エゴは何もすることは出来ず
することはただ起こるのだ、ということです。
あるがままの現実が変わることを望むことなく、起こることを何でも受け入れることです。
究極の平和は、この肉体精神機構を通じて起こる行為にかかわらず起こるのです。
傷や喜びが、そこかしこにあるかもしれませんが、誰も何もやっていないという理解もあります。
ですから、他の誰であろうとも、行為者は誰もいない、という理解は、誇りも、罪悪感も、憎しみも、妬みも、嫉妬もないことを意味し、それが平和と言うこと。
目覚めているときに行き渡るニルバーナの平安ということです。
エゴがそこにある、それを受け入れてください。
それがいたいだけ、あるいは神の意志である限り、それをいさせましょう、ですから最終的な受入は、エゴを受け入れることです。
−中略−
お分かりのように、「平安」は悟りを求めるエゴに、えさとして与えられるものです。
言い換えれば、エゴは私はそれから何を得るのだろうか?というのです。
「貴方」がそれから得るものは、無!、です。
その「無」を得ることは、何を意味しているのでしょうか?
貴方は何かを求めているのではありません。
貴方が得ているものは、求めることがない、ということです。
そして求めることが無いと云うことは、求める人が不在だと云うことです。
ですから、求道者は、何を得るのでしょうか?それは彼自身の不在であり、それが平安と云うことです
そのときbhakti献身がjnana理解・洞察に変わります。
個体としての神への献身が、存在するすべては源泉であるという智慧に変わるのです。
ですから、それがまさに言っていることです。
貴方は神を探しに出かけ、神になって帰ってきたのです。』