私は移動していない、私は行為していない、思っていない



ラメッシは言う


実際は


何もしていない(行っていない)、思っていない、考えていない、生きていない


だから、何も出来ないし、〜になることもないし、拒否も受容もしていない


すべては起こっている


この私も(自我(エゴ)も)
この私が生きているという錯覚も(この錯覚もプログラムであり、やってきている)
この私が行ったことも、行うことも、行おうとしていることも、
     (為したことも、為していることも、為そうとしていることも)
この私がなることも、ならないことも
この私が見て感じている内も外も、自分も世界も
この私が体験する出来事も、運命も、カルマも

全ては起こっている、ただ単に起こっている

この分離感という錯覚も
この感覚という偽りの知覚も
この時間という虚偽も
この空間という偽りの感覚も
この自他の分離も
この行為者という錯覚も、自由意志という虚偽も
この自我という嘘の実体も、転生を続けている私も
そしてこの偽物の私の見ている、私ではないあなたも、対象としての世界という錯覚も

全ては起こされている
そして
全ては起こっている

一分一秒の狂いもなく
起こるように、起きている
絶対絶妙のタイミングで起こっている


することはない
何故なら
することは出来ないからだ

このする、行為する主体である私は私ではなく、単なるスクリーン上の映像の出演者である
これはプログラムであり
上映されているフィルムの結果なのだ
根源が上演している映画なのだ
(しかし映画が上映できているのはスクリーン【気づき・真の私・魂】が在り、光源が在るからだ)

そもそも私などはいないのだから、何もしていないし、何も出来ない
(しかし、私が生きている、私が知覚し、感覚している、私が行為している、私が移動しているという錯覚だけはあるが)

だからラメッシは
最終的には
この主体である私自身が錯覚であるとき
対象である世界も錯覚である
主体がないとき客体もない

本当は
何も起こっていない

という



そしてラマナ・マハリシはいう


私が在るとき

世界もなく、自我(エゴ)もなく
そして


何も起こっていないのだ


真の私はただ在るのだと
今此処に在るのだと
完全として
全体として
未知なるものとして
記述不能なるものとして
真の魂として
最初から
此処に在る

と言われる


この自我(エゴ)である私
即ち魂でもなく
真の私でもない私
マインドによって
記憶によって創られている自我が行為していると錯覚している私

プログラムの結果である私は
自由のない私だ
ロボットの私だ


それでも
このロボットの私は
思うのだ


このロボットが錯覚して存在しているように見えることが出来るのは
(現象という錯覚自体が有ることが出来るのは)


ひとえに
ここにスクリーンという開かれた窓(魂)があるからだ
意識である、この魂が、ここに未知なるものとして実在しているからなのだ


この自我の私によっては意識されないが、この思考されない「気づき」があるからこそ、

虚偽は上映されることができているのだ


わたし個人、人格は
この自我である分離した私は
プログラムである私は

魂ではない


真の私が目を覚ましたとき
魂が目覚めたとき
即ち、目を覆っていた(魂を塞いでいた)マインドが離れて、錯覚が落ち
マインド自体がマインドを見切ること

この覚醒自体が
そもそものプログラムであり
この覚醒自体も、起こることの内に含まれる

だから私には
何も出来ない
何もすることもない
何もしていない

何故なら
私が生きているのでもなく
私が行為しているのでもないからである

魂が真の私なのだ







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