「求めよさらば与えられん」、私達はドアを叩いているのか
真我は一番大切か
何が自分にとって一番大切か
何を自分は本当に求めているのか
自分にとって一番大切なものとは何か
自分にとって本当に求めているものとは何か
真我探求とは、内なる神とは自分にとっては何なのか
寝ても
醒めても
何をしているときも
仕事をしているときも
運転しているときも
電車を待っているときも
歩いているときも
食事をしているときも
トイレに行っているときも
人と話しをしているときも
そのことで一杯になっている
そのような状態になっているか
真我の探求がそのようになっているか
内なる「I AM」はその恋人のようであるのか
内なる神は、自分の情熱の全てであるのか
それとも
その真我の探求は
自分にとって切迫し、急迫した、緊急のものではないのか
通帳がゼロになること
明日から仕事が無くなること
お客が誰も来なくなること
急に破産すること
そのような事態になるのなら、
緊急はどちらか
この真我探求かそれとも経済か
自分が癌になる
交通事故に巻き込まれる
子供が急病で死ぬことになる
そのような事態になるのなら
どうするか
その昔
禅宗のある導師は、自分の師がどうしても入門を許さず、弟子にしてくれないので
自分の決意を示すため、自分の腕を刀で切り落として、その腕を差し出し、入門を請願し
その探求の決意を示したという
真我の探求は
時間が出来たから行うのか
病気が治り、健康になるからやるのか、
それなら健康になったら止めるのか
金銭的に良くなるからやるのか、
それなら、その真我探求で一文無しになるのであるならどうするか
有名になり、知られるようになるからやるのか、
それなら今まで築いてきた地位や名誉が、全て真我探求で失われ、皆の前で大恥をかくようになるならそれは止めるのか
自分の願望や願いが叶うので、その真我探求をするのか、
それならもっと別にもっと確実に自分の願いを叶えるものが出てきたら、それは興味の焦点は変わるのか、どうするのか
自分にとって
真我の探求と実現は第一義なのかどうか
それとも
その神を真我を利用しているだけなのか
その探求は生死に関わる問題なのか
それとも単に自分にとっては
健康と金銭の安定と、地位や名誉の為にそれを利用しているのか
健康になること、経済の安定を得ること、願望が叶うことに、それを利用しているだけなのか
利用し、利用され、利用を行うものは神ではないマインドである、自我である
内なる神である真我は利用しない、利用させない
そうではないだろうか
内なる神と真我実現は失うことを条件としているのではないか
全てを失うことが条件ではないか
そして最後に自分を失うことが条件ではないか
それは
得ることではない、悟ること、真我を獲得するのでは無い
獲得するものは何もない
願望を成就することではない
何かを獲得することではない
失うことだと思う
全てを失い
全てをなくすのだ
本当は何が第一義なのか
自分にとって
何が緊急なのか
何が切迫した事なのか
何が一番、占有していることなのか
何が心の中で焦がれていることなのか
何が一番大切なことなのか
何を本当に求めているのか
何が本当に求めていることであるのか
真我か
それとも健康なのか、
経済の安定か、
もしも
真我探求をすることにより
癌になり死をを宣告されたり、一文無しになり破産したり、家族が崩壊し自分の幸せを全て失ったり、自分が世間や社会で大恥をかいたり、自分にとって一番嫌なこと恐れていることが訪れるとしたら
どうするか
真我探求は放棄するか
それとも真我探求の為に全てを失うか
キリストは
「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして内なる神を求めよ」
といった
神とは勿論、真我である
自分は
本当は何を求めているのか
健康なのか
経済の安定なのか
単なる自分の幸せなのか
内なる真我を
本当に求めているのであろうか
内なる神を
本当に愛しているのだろうか
内なる神は
切迫した、切々とした存在であるのか
自分にとって
それが切迫していないのなら
ドアをたたいていないことになる
だから
真実は
こういう事だ
「求めよさらば与えられん」なのに
私達はドアを叩いていないのだ
求めていないし
ドアを叩いていないのだ
ただ単に利用しているのだ