物念は残留思念とは違うのか
マインドが鏡である「私の主体」に
私という自己意識を引き起こしているのであり
そのマインドの中身が恐怖であり、
欲望であり
葛藤であり、
不安であり、
非難・比較であり、
暴力そのものである
そのマインドが私という意識を、自己意識を作り出した、鏡の上に…
そしてその私の元になっているのが記憶であると思う
その分離性そのものであるマインドは
その記憶を経由して
思考と感情、即ち恐怖と欲望と暴力の私が出現するのだと想う
そのマインドはあらゆる鉱物、植物、動物、生きている生物、
死んでいると思われる機械や道具に及んでいる
物質は意識なのだ
意識は物質だ
その意識はマインドでもあり
それらのマインドを理解していることが気づきなのだとおもう
この気づきレベルが上江洲義秀先生の意識状態のレベルということである
良く上江洲義秀先生との会話の中で
道ばたの大きな石が高速道路の拡張のため、将来自分(道ばたの大きな石)が粉砕され、ここに大きな道が出来ることを嘆いて彼に訴えたり
尋ねた知人の家に置いてあったお琴が、先生に訴えて“そのお琴は実はこの家にここに置かれる前に元の持ち主にあったものを、この家の持ち主が借金のカタに引き取ったもので、この新しい持ち主は自分を全く大事にしてくれないので、前の持ち主に自分を渡して欲しい”と言っているのだそうである
ここで
気がつくことは
生物も無生物も、道具や機械すらも意識があること
クリシュナムルティーのいう物質は意識であり、
意識は物質であると言うこと
しかし
それを認識している状態の意識レベルは、
決してそれらの物質・無生物や生物の意識状態では無く
そのマインドを包含することができる意識レベル
即ちそれは
気づきの意識レベルであることが最重要ポイントであると思われる
相手の「その大きな石」や「お琴」自身の意識と同調できるということは
私が、この私自身がその「大きな石」や「お琴」そのものになっていなければ実現できないということ
これは
この上江洲義秀先生の意識レベルが
マインドの意識レベルではなく
無生物や鉱物との一体を実現している
「われはそれである」
とのユニティー・融合の意識を体現していることを証明している
私達の今これを書いている、私のレベルはマインドの分離のレベル、
恐怖と暴力が生み出した私が機能しているレベルである
このレベルはこの地球のあらゆる物質が持っている意識状態であり、
この意識は
それ自身である意識状態
それは
私という自己意識と
記憶と
知性と
感情と
欲望と
意思と
五感の五つの知覚と
認識能力と
予知能力すら持っている
だから
私達の
私という自己意識と
記憶と
知性と
感情と
欲望と
意思と
五感の五つの知覚と
認識能力と
予知能力などは
この頭脳に依拠しているのではなくて
その物質に依拠している
その意識そのものがそれを持っている
これが
物質でなく
幽質であっても
全く同じであると思われる
この現象界は意識そのもの、マインドそのもので満ちている
そしてそのマインである中身の
意識は全て分離性と私という自己意識で成り立っている
そして、それらの現象界の分離したマインドを見ること、感じること
それが
気づきの一つの状態なのだ
それらのマインを見るためには同調しなくてはいけない
マインドがマインドを感じ見ることは出来ない、理解することは出来ない
今これを書いている私はこのパソコンの意識と同調し、
理解してこの意識と繋がることは出来ない
何故なら
マインドのレベルでは、このマインドを知る、理解する
即ち同調し、同化することはできない
「われはそれなり」
「ワンネス」は実現できないのだ
ワンネスを実現するためには
自分のこの意識レベルがマインドの次のステップである
「意識という意識」レベル
そして更に「観照者である気づき」の意識レベルに覚醒していなくては実現しない
この「大きな石」や「お琴」と同一化し同調できる状態、これこそ愛の状態である
一つである意識状態、自他の壁が取り払われている状態
相手の苦しみが、相手の悲しみがそのまま自分の苦しみであり、悲しみである状態
この意識状態こそ愛の状態であり
この意識状態のなかにはそのままその悲しみを見ることが慈悲として、愛として、
そしてその苦しみはそのまま見られることで歓喜として存在している
とそのように思われる
良く物念や残留思念と言われるものは
このワンネスの状態に至る前の意識レベルにある者が
認識したりするが
この現象は
マインドの状態からその意識にコンタクトした知覚状態と思われる
だが
上江洲義秀先生のこの意識状態は
物念や残留思念を知覚している状態ではなく
観照者である真我の意識状態即ちワンネスの状態から
それらの物質に対して
意識の焦点が合った結果引き起こされた現象と思われる
今、私達の意識はワンネスではない
分離のマインドである恐怖と憎悪が作り出した自己意識なのだ
その意識が
人生を生きている
自分の人生と思っている
その意識を
着飾り、上塗りしても元が腐っている墓場で中には、腐った死体があるだけなのだ
それを
悟りましょうとか、愛し合いましょうとか、ワンネスを感じましょうとか言っているだけなのだ
この事実、現実を見ることが出来れば、
正確に言えば見ることが起きれば
私は(この鏡は)
次のステップに進むことが出来る
この欺瞞と偽善を見ること
マインドのカラクリを見ること
私は存在しておらず、
マインドという分離性が恐怖と憎悪が創りだしたものそれが私という自己である
私がマインドを見ているのではなく
マインドが私を作り出してそのマインドが私と思ってマインドを見ている状態
これが
今の状態
しかし、内部からの恩寵(恩寵は外部からではない!!)があれば
私は
この状態を観念的にでなく
実際に、直に感じる感覚で体感し、直感し、理解することが出来るかも知れない
そのとき
私達の中に
新たなる意識が「意識という意識」レベルへの参入が起こるかも知れない
そして
更なる
観照者という「気づき」のレベルの扉が開かれるかも知れない
その意識は「存在」である
この「存在」という直覚が起きたとき
訪れたとき
私達は
この物念や残留思念の知覚でなく
ワンネスの愛の状態から
それらのあらゆる生物や無生物との一体化を通じて
彼らの
悲しみと苦しみを知ることが
上江洲義秀先生のように知ることが出来るだろう