マトリックスの動き
672夜さんが指摘しているように
私達、求道者の陥りやすい錯誤がある
覚醒した方の言葉を、そのまま覚醒していない私達が丸暗記して、何も分かってもなく理解してもいないのに
理解していないままに分かってもなく話したり書いたりする自己矛盾に陥る危険性である
ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジ等の方々によって人類に与えられた至高の教えがある
それは自分なりに解釈すると概略以下のようなことであろうかと思われる
「私達は自己が成長し、達成し、良くなって、段階を上昇して
ついには自己が存在していない事を照見すると思っているけど
そう思い込むのは、またはそのように考えてしまうのは誰か
みるものは見られるものであるのに
正しく見ることが出来ないでいるのは
そこに「私」という観念が、即ちマトリックスが介在してきているからであり
実際には分離などなく、「私」などないのに
即ち、対象というみられるものと、それを見ている主体とは一つであり分離していないのに
マインドが見ている「私」という分離と二元を作りだし、その「私」が自我・個人を生み出している、
それが「マーヤ」、それがマトリックス、それがマインド・思考・時間なのだ」
といわれるようなことであるが
それを話すことができるのはその話す方がその言葉を話す内容と同じ状態・段階・次元にあると言うことである、
その人本人が話す言葉と同じ波動を出していると言うことである
だから、いくら言葉では究極の真理を述べようとも、その波動が異なっておれば、それは虚偽であり嘘をついているのだ
それは無自覚なペテン師なのである
そういうことであるので、覚醒したグルの語る言葉は究極の真実であるけれど
それを話すことができるのは、
即ち言葉や本だけで記憶するのではなくて実際に理解して話すことが出来るのは
そこに到った人だけである
泳げない人が泳ぎについて話したり、馬に乗れない人が騎乗の方法について話したり
食べたことがないのにその味について話しているような人はペテン師である
それは畢竟、嘘をついていることになるのだ、自己欺瞞なのだ
672夜さんが指摘しているように、此処ではクリシュナムルティーの言葉が非常に役に立つ
それが
「あるがままをあるがままに見ること」である
このあるがままの雑音と、あるがままの恐怖と不安こそが
私にとっての実際のあるがままであり、それをあるがままに見ている「もの」も
このあるがままの雑音であり恐怖であり不安なのだ、観察者は観察されているもの自身なのだ
認識者は認識されているもの自身である、外部とは内部を投影しているものだ
此処で一番の重要点は
クリシュナムルティーはこの「あるがまま」を「あるがまま」が「あるがまま」に見ている事の中にこそ
あるがままの超越と、新たなるあるがままの誕生があると言われる
この恐怖に満ち、憎悪である私が、自身の恐怖と憎悪である自分自身をなんの思考をも交えずに見ている事を
強く薦めておられる
何のさざ波を立てることなく、そのあるがままの事実を受動的にじっと動かず、逃避することなく、何かに成ろうとすることなく
何処かに行こうとすることなく、ただただ
「あるがまま」が「あるがまま」を「あるがまま」に見ていることの中に、新たなるあるがままの誕生があると言われている
あるがままである私であり、それを観察しているあるがままの私を超えるには
「あるがまま」が「あるがまま」を見る事の中に、
即ちこの「あるがまま」からしかないのであると言うことなのである
フェニックス不死鳥(ラマナ・マハリシのいうあるがまま)はこのあるがままをあるがままに見る事の中から誕生してくるのだ
ここで重点なのは
それを無視して、いきなり高次の視点に飛躍してしまうことは、砂の上に家を建てることであり砂上の楼閣である
ということである
、
だから至聖なる方々によって教えられているような、以下の事柄
『本当は「私」などはなく、「わたしはそれ」であるのに
この肉体の知覚と感覚を「私」の知覚、「私」の感覚と思いこんでいるマトリックスが、そのように考えているのだ
それはマインドであるマトリックスが考えているのであり、
私がではない、私とは思考ではなく、対象を持っていないからである
これはそのマトリックスという概念が思考している、そして「私」を生み出しているということである
実際は、この肉体や幽体や霊体の感覚や知覚は「私」の感覚ではなく、その肉体や幽体や霊体の感覚知覚なのに
それを「私」の感覚、「私」の知覚、「私」の体験、「私」の行為と「私」が思い込んでいる
実際は「見るものは見られるものである」のに
それをマトリックスはそれ自体の感覚を、分離している感覚を感じているのだ
自分や自分と分離している他人などいないのに、
自己とそして自己に対立しているものとしての他己があるように思わせているものとは何か、
マトリックスとは何か、それは時間である
「現在のこの私」に、思考がある限りマトリックスはあることだろう
思考がマトリックスそのものであるからだ
対象が有る限りそれは思考でありマトリックスであることだろう、私には対象はないと言われている
時間がある限りそれは認識者や観察者を含み、そこはマトリックスであることだろう
私には時間はなく今しかない
「私」の感覚が有る限り、それはマインドであり、私ではなくマインドが私と詐称しているのだ
私とは「私」ではない
「私」という、自己感覚が働いているとき、その「私」は私ではない、マトリックスが「私」という嘘を創りだしているのである
外界や内界を分離させ、外界や内界を自己と分離しているものと思っているものは誰か
みるものは見られるものであり、ただ一つであるのにそれを分離したものと思い込んでいるもの
「私」やあなた、「私」と私ではないもの、即ち対象という構造を生み出したものは誰か
主体や客体を自己と分離しているものは誰か
自己を自我と同一視しているものは誰か
そして、自己の達成を願い、自己が到ること、実現を努力しているものとは誰か
結果である「私」を私や自己と同一視しているものは誰か
それはマトリックスであり。そのマトリックスこそがこの「私」ではないか
実は「私」とは存在していないのである。そして
本当はマトリックスもなく、「私」もいないのではないか』
というような真実を、嘘でなく言うことが出来るためには
672夜さんは
この現在のあるがままの私から出発しなければならないのであると教えられている
幼稚園児が何も知らずにただただ教えられていることを丸暗記して話しても
それは実際には何も理解しておらず分かってもおらず
従って何の力も持たず、そうして本人の波動と矛盾し、嘘をついていることになるのだ!!
だからラマナ・マハリシのいうあるがままへの出発点そして到達点は
このあるがままの雑音である私である
この私をあるがままに受動的に何のさざ波を立てることなく見る事の中に
「見るものは見られるものである」であるが現れ、そしてクリシュナムルティーが言われるように
あるがままからの超越と新たなるラマナ・マハリシのいうあるがままの誕生があるのではないか
便宜上、ここでわたしという言葉をあるがままという言葉同様に色んな意味で使い分けており
全く異なる意味を用いているので
私と言う言葉を以下のように今回は区別して用いている
勿論ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジやクリシュナムルティーの様に真我である御方にとっては
どの私も区別はなく、全ての私が真の私・あるがままであることであろうが
(上江洲義秀先生が、全てが神である!と神しか見れないように)
現象界側から見た場合は段階が(次元)があるように見えてくるのである
あるがままがラマナ・マハリシのいうような意味でのあるがままとなった場合は、あるがままが真我であることだろう
しかし、現在のこのリアリティーの私のあるがままとはラマナ・マハリシのいうあるがままではなく
グル達の言う私ではないものが「私」のあるがままなのである
@私:括弧のないわたしであり、現在の「私」には未知なる私。あなたである私であり、この私はそれでもある。
この私は思考ではなく、時間ではなく、対象を持っていない「見るものは見られるものである」であるものであり
本来は私という概念ではなく、むしろ在るもの、全体、全てなどといったほうがいのかもしれない
A自己:@の状態から現象界に顕現している全体の顕現であり、通常は高い意味で魂と呼ばれており「きづき」でもある
高い意味で観照者とも呼ばれている
低い意味では魂と呼ばれている。但し厳密には高次の魂の部分を「ソウルエピグノーシス」、低次の魂の部分を
「セルフエピグノーシス」と呼んでいる
低い意味では@が現象界に触れている部分であり、「私」というマトリックスに覆われている状態である
各転生を見ているものである
B「私」「現在のこの私」
:要するに一般的に言う自我であり、「私」であり
悲しみと苦しみに包まれ、恐怖におびえている実体である
周囲に悪臭をまき散らし、愛のない低次の波動であるこの実体である
自他と分離した実感を持ち、完全に思考それ自体であり
客体を持っている偽の主体でもあり、進化していく、進歩している、良くなっている、神に近づいているなどと
錯覚している自己関心の思考意識それ自体である。観察者とも言われる
自己を観察している自己である観察者でもあり、通常自己観察していると錯覚している自我である
輪廻転生している実体であり、その個人や人格の集合体でもあり、その成果体でもある
今生における個人や人格はワサナやサムスカーラとして、異なる次元で待機状態となり、この「私」が転生してくる
受精時にその「私」と一緒に、この肉体に縛り付けられるものであると言われている
この「私」は肉体ではなく、肉体と自身を同一視した自己の記憶である
C自我:これはBの「私」である観察者が未だ充分に発達していない段階でみるものと見られるものの分離すらも
ハッキリとしない段階で生じている意識状態である
外部から肉体や頭脳を経由している感情や思考と完全に巻き込まれている状態の意識で
「切れた」とか言われる分離のコントロールさえもが未だ生じていない状態である