進歩の階梯について
Aさん :お久しぶりですね
B子さん:お元気でしたか?このところお会いしていなかったので体の調子でも悪いのかと思ってましたわ
Aさん :いやいや
色々と生業の方も結構忙しくてなかなかお会いできませんでしたね、
その後探求の方はどうですか
進歩がありましたか?
B子さん:そうね・・・、
その進歩と云うことだけど・・・
境地が上がるとか、階位が進むとか、段階が変わるとか、ステージがアップするとか
所謂、魂の進歩ということだけどね〜、
まあ、それは段々と良くなっていくという事だけど・・
そのことについて、ちょっと考えることがあってね・・・
Aさん :えっ・・それは一体どういう事
もっとハッキリ言ってくれても良いんだよ
B子さん:要するに、
この私達が何回もの転生を続けて「自分が存在していなかった」という解放へ到るというプロセスの事
なんだけど・・・
いわゆる悟りに徐々に近づいていくとか、進歩して認識が深まっていくとか
解脱とか、磔とか云われている私達の魂のこの輪廻の状態の事よ・・・
魂が進歩し進化して段々ステージを上昇すると云うことに関してよ
Aさん :通常、もちろん僕たちは色々と多くの輪廻を重ねて、徐々にチャクラやクンダリーニや、黄金の霊体を
形成し、それらが開花して真我と繋がっていくようになると言う事だけど・・
そのことを君は云っているのかい
B子さん:そうそこなのよ
私はその段々と良くなっていくという過程、プロセスのことを通常進歩とか、解脱への過程とかいってい
るけど
わたしにはそれが、その過程をも含めて、実際の本当の「私」とは関係ないことのように思えてくるの
それは確信と云うまでは行かないけど、ぼんやりとこの良くなって進歩していく魂とは「本当のこの私」
とは関係ない「投影されている映像」のように思えるのよ・・・・
輪廻転生している私とは、私なのか、それとも「真我から発生してきた第一想念」という波なのかってね
Aさん :〜へっっっっぇ
だって、私達である魂はこの解脱とか、自己からの解放を目指して輪廻を重ねているんだよ
それにも関わらず、君はその輪廻のプロセスのことを「?」というのかい・・
この進歩して段々にステップを駆け上っている魂の事を「?」というの・・・・へぇ?
B子さん:はっきりとは、こうだとは断言できないけど
その輪廻のプロセスと、進化の階梯ということそのものがとても不純に思えるのよ
それはとても、「愛」である「私」とは相容れない感じがしてくるわけなのよね
Aさん :〜というと?
B子さん:その進歩、その悟りの階梯とは、(階位の上昇とか、イニシエイションの段位をアップすると云うことは)
非常に間違ったことに思えるのよ
誰がそこに到ろうとしているのかしら? 本当の私なら到ろうとするのかしら?ってね・・・
一体誰がそこに到ることで何を得ようとしているのかしら?何に成ろうとしているのかしらってね
何で、どうして到ろうとするのかしら?
成ろうとすること、到ろうとすることとはなんなのかってね?つくづく思うわけね・・
この到ることを望んで、その為に瞑想とか、修行をしているのは誰で、又何を目的としているのかしら?
その求めて到ろうとしている状態の私とは、本当の私なのかしら?
それとも私と言う仮面を付けているマインドなのではないかしらってね
到達するために、思考の停止を願って、思考を凝視している私とは一体誰なのかしら、又何のためにし
ているのかしら?
それらは、全てが私が・・・、私のために・・・、私だけの利益を目的としてやっている事なのではないかしら
そんなことを「本当の私」ならするのかしら、それともそれをしているのは私ではなくて私ではないマインド
なのではないかしら
その私が良くなることを目的とした行為とは、いくら愛とか、神のためにとか、悟りとか、瞑想とか
云っても、その動機や目的が・・・自分の悟りであり、自分の達成である限りは
(自分の利益であることは)いくら飾り立てて自己弁護してもそれは明らかよ・・・
そうではないかしら
わたしにはその求道、解脱、成道という自己実現の階梯と、そのプロセスが非常に邪悪なことのように
感じられるのよ
私が進歩し良くなることを願い、瞑想し、修行することは正当化されるように感じられるかもしれないけれど
本当の意味に於いては、それは全く愛ではないし、真の「私」に背くことでもあるのよ
真の私を否定することでもあるわ
もし、それが純粋の私なら
何故その悟りを、その深化を、進歩を私にではなくて、あなたに、まず真っ先に与えようとしないのかしら
だからわたしはその自己実現のプロセスを歩んでいると思う事や、進歩をしていると思う事が愛に反する
ことのように感じるわ
Aさん :〜そうか・・・
ラメッシが「求道者が自我である」と言っている意味が分かったような気がするよ
もし真の私なら、決して悟りを求めることはなく、人々に悟りを与えようとするだけなんだよね
B子さん:多くの神智学や神秘学派が実際にその進化の階梯を、自己実現のプロセスを明示していることは
それは実際の事ではあると思うのよね
けれど・・・わたしにはその求道そのものが自己を解放せず、自己を閉塞させる事のように
感じてくるの・・
自分の悟り、自分の進歩、自分の達成、自分の成果・・・それらは邪悪なことだわ
何故なら、それらは愛ではないからなのよ、自分の利益ばかりに拘泥して自分に焦点が合っているのよ
そのことは私達を愛から遠ざけていく道へ私達を誘っているようにも
感じられてくるのよ
与え続けること、全てを与え続けることが愛であるとしたら
最高の輪廻の成果を何故、自分にではなく貴方やその人に与えようとしないのかしら、何故その果実を
自分のものにしようとするのかしら・・他人に与えないで
その神を利用し、グルを利用し、そのプロセスを利用し、そのメソッドを利用し、最高の宝である解脱や
悟りを得ようとすることは、邪悪な行為ではないかしら、
悟りを得ようとすること・・それは邪悪な目的と動機であるとわたしには思えるの
そのグルを利用し、神を自己実現と自己の解放という目的のために利用するものは、また利用される
ものでもあるのよね
利用するものは利用されると言う事ね・・・
そこには愛はなく、最も精密なるこの現象界のプロセスと実際のテクニックはあっても、それは結局は
束縛よね、それは自我からも個別的な魂からも解放されないわ
知識と知覚と体験と記憶の世界・次元に束縛されてしまうのよ
決して時間から解放されることもなく、マインドからも解放されることもなく、自己から解放されることもないわ
何故ならその解放と進化というプロセス自体が真の「私」とは全く関係ない次元のことであるからよね
本当の「私」であるなら、どうして自分の為に神をグルを利用するようなことをするかしら
この限定されている「進歩し良くなっていく自己」という個人的な私を自分だと思うのでしょうかしら・・・
Aさん :〜んっ・・ そうか・・・厳しいな・・
確かに神を利用するものは利用されるし、グルを利用するものは利用されるよね
しかし、君の云っているその内容は、その前の状態を経験し尽くしてからでないと嘘になるね
というのは、努力をしたこともない人に、努力ということの虚偽を話すことは無意味だし危険でもあるよ
弁証法的に、その前の状態をキチンと経ていないと次の状態を話すことは無意味だと思うんだ
いきなり、求道すらもしていないし、努力すらをしていない人に、求道は間違いだ、努力はまちがいだ
ということを話したら飛んでもないことで、まず始めに気が狂ったように一心不乱に努力し尽くし、求め
尽くしたその暁に、その言葉が有効になる時点に到ったと云うことだと僕は思うな〜
グルジェフの云う無努力は超努力の実践の暁にやってくる状態だし、クリシュナムルティーをはじめとする
聖者達の努力をしてはいけないという言葉は、努力をし尽くした人たちに向かって語られている言葉だと
僕は思うんだな
B子さん:そうそうよ
それはAさんの云う通りよ、けれども思うに、そこに留まっている限りは実際の真実にはいかないで
いつまでも無明に留まることになるわよ
実際にはありもしない、この記憶や知覚や認識に騙されて、マトリックスを受け入れてはいけないと思うの
ところでAさんに聞きたいんだけど、いま貴方はJOY歓びに溢れているかしら?
喜びを実感している?
Aさん:え!!
何故そんなことを聞くの?
B子さん:これは重要な事よ
貴方が本当に「注意」の状態にあるなら、自然に喜びに溢れているはずよ
Aさんが「今・ここ・あるがまま」の片鱗でも味わったならば、必ず喜びに満たされていると思うの
真の私とは勿論、ラマナ・マハリシ達の聖者が言うように無思考・非対象の言葉のない状態だわよね
そして、その時は必ず喜びが爆発しているのよ
JOY!JOY!なのよ
恐怖が貴方ではなくて、貴方と思わせているマインドの意識状態であるように
気づきとは歓喜であり、喜びなの
よく貴方が私は恐怖だと云っているけど、それは違うわ、そういっているのは貴方ではなくて
貴方を覆っているマインドがそう云っているのに過ぎないわ、貴方は喜びなのよ恐怖ではないわ
「私は恐怖である」と云っているのは思考やその記憶であって貴方ではないわ
輪廻転生しているその記憶は確かに恐怖よ、だって概念(第一想念)でしかないから
でも貴方は違うの!、貴方は恐怖ではなくて喜び!だわ
Aさん:凄いことを云うね、しかしこれは実感なの、それとも本で読んだ知識なの?
B子さん:そ〜うね〜、私の場合はほんの少しだけ経験したの、それも瞬間的にだけど
けれど、そのチラッとのぞいた体験があるので、今までに勉強した覚者達の言葉が身にしみて
くるの
勿論まだ確信ではないけど、それらの聖者達の言葉が胸に滲みてくるわ・・・
Aさん:そ〜か
パパジ達の言っている「何もしないこと」「ただ在ること」はきっと、君のその延長線上にあることなんだね
B子さん:そ、そ、そんな偉い人たちと一緒にしないでただ私はチラッと覘かして貰っただけなんだからね
Aさん:ま、いずれにせよ、何も求めることはなくなり、何にも成ろうとはしなくなった場合には、きっと
そこには「私は在る」ことへの道が開かれ「今・ここ・あるがまま」が静寂と共にきっと姿を現すんだ
ろうね〜
そしてその静寂と沈黙とはJOYであり、喜びに爆発しているんだろうね
B子さん:そうよ、きっとそうだと思うわ、輪廻転生している私とは私ではなくて、本当の私から生まれてきた
「私と言う概念」だと信じているのよ