全託・観照すること


全託・観照は全託・観照であって

全託する、観照するは間違っている、

全託し観照しようとしていることは、全くもって全託観照ではない

何故ならそこには全託しなければならない、といっているところの

全託ではないものが、全託をして何か真我の体験や普遍意識を得ようとし、その為に

全託をしなければならないと思考し、瞑想しているからである

同じように

観照についても、同じ事であり

観照しようとすることや、私が観照するということも

観照しよう、観照しなければならない、という観照ではないものが、観照という状態を得るために動いているからだ

観照をすることによって、とてつもない普遍全体のただひとつなる意識に到達せんとする欲望がこの動機として

動いている、

だから観照しようとするのである、

観照するということは観照ではないものの動きにほかならない

それは嘘をついているのだ、と言うより自分に騙されている、若しくは自分を騙している

全託でも観照でもないものが全託をし、観照をして、至高なるものに到ろうとして

全託になろう、観照になろうとしているからだ

それは、とどのつまりは観照でもなく全託でもないものに身を委ねることであり、

この至高なるものになろうとするものとは、至高なるものではなく未来という過去である時間という

思考であるに過ぎない。


そういうわけであり、その時間であり思考と言うマインドに身を任すこととは、観照や全託から離れて行くことでもある

何故なら観照や全託とは、最早観照しようとしたり、全託しようとしたりすることが全くないことであり

観照したり全託することで、その至高なるものになろうとし、到達しよう、獲得しよう、手に入れようとしているもので

あるところの「主体もどきである私」がそこにいないとき、即ち私がいないときである

それは即ち、行為し、思考していると思い込んでいる私という分離した実感をしている実体が存在していないとき

それは始めから「今此処」といわれているハートの中に既に在ったものであると言われている

その既に在った「存在」こそが全託、観照そのものであって、

全託も観照ということも、瞑想をしたり、観照し全託しようとして、そのように思考し思い込むことで到る様な

ことではないといわれている

それを覚者は「あるがまま」であると言われているのである

同じように

愛や解脱や宇宙意識や許しなども同様である

愛を実践しようとするとき、勿論愛はない

愛している自分や愛している対象を実感しているときそれは愛ではないと、愛の中には分離した私も

貴方もいないからであると教えられているではないか

愛は実践するものではなく、実践する私がいないとき、そこに在るものであるからであると

愛の中には愛している私も、愛されている対象であるものもない、ただ愛だけがあるのだと

悟りや解脱も、この愛と同じように悟りや解脱というものは、到るものや到達することではないと

到ったと実感し、そこでの体験をしているとき

そこに到った体験とは、それは到りではないものである、そこに到ったと言うことで

到っていないことを証明している、本当に到ったときにはそれを認識している私がいないからである、消滅して

いるからである

従って、私が、この自分が到ったという経験をしているとき其れは到った事ではない、

到ることもなく、到達もなく最初から「今此処」に在ったのであると

これは上江洲義秀先生流に言えば既に真我で在るということだ

かく言うこの久保栄治は勿論そのようなことをいえる立場ではなく理解もしていないけれど

その悟ろうとしたり、到ろうとして全託し観照しているつもりになって必死に努力している友人の姿を見るにつれて

其れは違う!、それはマインドのトリックに嵌っているのだ!と感じているのだ

であるので

悟りとは、もし悟るということが、未来のことや将来に起こる事であるのなら、其れは悟りではない

其れは過去であり結果であり時間であり、その時間のなかには映像だけがあり結果であるに過ぎない

悟りとは時間ではなく、未来でもなく、過去でもないからである。

其れは起こる事ではなくて、既に在ることであると

何故なら悟ること、到達すること、解脱することとは、悟るべき私が、到るべき私が、到達し、真我実現すべき私が

最初から存在していなかったことを正見することであるからであり、この意識し、感じ、思考している私とは

結果であり、映像であり、実は何処にもいなかったことを正見することだからである

その私といわれているものが最初から存在していなかったことを私が悟るとか、私が理解すると言うことではない

悟るとか理解するという私がそこにはいないのである、悟るべき私、理解すべき私こそが私ではない映像である

ラマナ・マハリシは言われる「この私という映像を映し出しているスクリーンこそが私である」と



そこには悟り、理解すべき主体である悟っている私、理解している私がいないのである

そういうわけで悟りや到達や実現も既に今此処に「あるがまま」にあり、

従ってそれらの主体を前提にしている悟りや到達や実現も本当はないということになるのである

それらは悟りに近づいている、到達に近づいている、実現しつつあるという過去現在未来の時間という

主客の分離している領域にはないからである



上江洲義秀先生も言われているように時間とは結果であり、結果とは過去であり、過ぎ去った出来事であると

その過ぎ去った起こってしまっている出来事の中に私たちは生きていると思っており、将来に良くならなければと

努力しているわけである・・・これは映像である、この行為し欲し動機と目的を持って努力している私が映像なのだ

私達が生きているのは過去であり、結果であり、現象世界であり、映像である、この私こそが映像で結果だからだ

この私自身も映像であり過去であり、結果なのである、私自身が過ぎ去ってしまっているものであるのである

この意識し、認識し、行為して思考している私とは過去であり、映像なのだ


それらは今ではない、あるがままではない、だからその私もどきは悟ろうとしたり、真我実現しようとし

そして、現象的に実際に悟りもどきを体験し、真我もどきというマインドの作り出した素晴らしい体験をして、

自分は近づいている、自分はニルバーナに達した、自分は悟った、自分は意識が拡大した、自分は繋がった

自分は真我に到達したなどと思い込むのである

それを認識している主体こそが「私もどき」という過去・時間である結果という映像に過ぎないのに・・・

では私が経験し、体験し、記憶しているその到達したという真我とは果たして本物であったのであろうか

本物であるのなら、其れは最初からそこに在ったものであり、真我になる私や到った私なるものではないし

そこには其れになったところの認識と言うものや体験というものの主体である私が存在していないはずである

私が到達し、私が実現したと思い込むとき、其れはマインドの領域である、

真実とは到達と実現が最初から在るだけで、それを体験し、記憶し、認識している私がいないのではないか

そこの今には悟りだけが、真我だけが既に最初から在ったのであり、悟った私や真我実現した私など何処にも

いないのである、だからこそ般若心経には悟りもなく悟りでないこともないと説かれているのであろう

従って

何かに到ろうとして行うところの全託や観照はまったくもって全託や観照ではない

全託や観照は自分がすることやなることではなくて、目的も動機もない事柄であるからである

ラマナ・マハリシがたが言われるように

全託や観照とは既に全託し観照しているのである、愛と同じように既に在るのである

其れを唯一邪魔しているのが、

全託や観照や愛や真我になろうとして行い実践しているこの私と言う過去にすぎない映像ではないか

其れがマインドではないだろうか

















































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