誰が誕生したのか
私たちは輪廻している自分を自分だと錯覚している
しかし本当にそうなのか
私たちはその輪廻している自分が何時か悟りを開いて神の元に帰還すると信じている
しかし、本当にそうなのか
私たちは輪廻している自分が瞑想によって意識が拡大し、宇宙意識や「気づき」に繋がると思っている
しかしそれらは嘘ではないだろうか
ラマナ・マハリシは次のように言っている
・真我から見れば
この蜃気楼の様な世界の中で生を授かるという「幻想」は、「私」と身体との同一化という無知以外の何者でもない
・真我を忘れ果てた者たちは、生まれては死に、死んでは再び生まれ変わるだろう、だが至高の実在を実現して心が死に果てたものは、生死を超えた実在の中にとどまる。
・真我を忘れて身体を真我と思いなし、果てしなく誕生を繰り返し、そしてついに真我を知って真我になるということは、世界中を放浪した夢から醒めるようなものである。
・自分は生まれたと考えるもの(記憶の集合体・自我(エゴ))に輪廻について考えさせればよい
・真我は永遠に存在し、転生する自我(エゴ)はより低い次元つまり想念の次元に属している、それは真我実現によって超越される
・現状に於けるこの(輪廻)という無知は意識(チット)と生命のない(ジャダ)身体との同一視によるものである。生命と再誕生の渇望は絶対的な存在・サットである生命の本質そのものの中に本来備わっている。
本質的に不滅であるにもかかわらず、はかない道具でしかない身体との偽りの同一化によって意識はそのはかなさと同化してしまう
それが誕生の連鎖と言う結果をもたらしたのである
・貴方は次から次へと再誕生してきたに違いない
だが、もし貴方が「誕生してきたのは誰か」と問いただせば
そして死と誕生が貴方に起こったのか
それとも全く異なる誰かに起こったのかとたずねれば
そのとき貴方は真理を悟るだろう
・貴方は今、貴方が身体だと考えている、それゆえ身体の誕生や死と貴方自身を混同している
だが貴方は身体ではなく、貴方は誕生も死も存在しない
・現在というものさえも単なる想像に過ぎない、何故なら時間の感覚は純粋に精神的なものであるからである
それゆえ時間と空間の中に起こる転生は想像以外のなにものでもない
・生まれ変わるのは魂ではなく
あたかも転生するかのように見える個人の思考に過ぎない
心がいかなる次元で活動しようとも
それはそれ自身の為に身体を創り出す
物理的世界には物理的身体
夢見の世界には夢の身体を
夢見の身体は夢の雨に濡れて夢の中で病気になる
丁度、夢のない深い眠りの中では世界はなく、それ故に身体もないように
物理的身体の死後、心はある期間活動を停止する
だが、すぐそれは新しい世界と新しい世界(アストラル)のなかで活動的になる
その後にそれは「再誕生」と呼ばれる別の身体を得るのである
だが
真我実現の人の心は既に存在を止め
二度と再び誕生と死の原因を起こすことはない
彼にとっては幻想の連鎖は永遠に絶ちきられたのである
・誕生とは自我(エゴ)に属する心の幻想である