誕生したのは私か



私が生まれたのか、それとも私が生まれたのではなくて「私と思い込んでいるプログラム」が観照者という窓に貼り付いており、そのプログラムの継続の結果として物質次元から精妙次元に変わっただけか。

私が生きているのか、それとも、この部屋にいて、このようにPCに書き込んでいる「この私」とは、
頭脳前頭葉に焦点を合わして、照射されている根源からのプログラムが作動し,
そうして、私という「自己感覚」が生じているのか?

出来事や肉体や「内部である外部のこと」や「私と思い込まされているプログラムの私」などの思考が、
意識の座である「窓」に
そのように頭脳にやってきて、その結果、脳内に映像として起こっているだけか、

このプロセスの中では、どこにも私などいないのではないのか。

私とは根源プログラムから照射された結果、脳内に生じている「自己」という観念なのではないか

私が誕生したことも

私が霊界から再誕のサイクルに入ることも、

そしてその継続している私とは、

脳内に起こっている映し出されている映像である記憶の継続でしかないのではないだろうか

私は死んだ(肉体を離れた)と自覚している「私」とは、誰か
それは生まれ変わってくる「私」であろうけど、
その「私」とは、単に「私だ」と思いこんでいる、外部からやってきた想念なのではないのか、
そのわたしと、本当の「実際のわたし」(熟睡中に触れている)とは違うのではないか。

また霊界から物質界に再誕してくる私とは誰か、
それは私ではなく、私と思い込むように仕組まれた「継続している思考プログラム」であり

そのプログラムがDNAに書込み、条件付けを起こして、今回の人生を決めて
肉体脳や幽体脳、霊体脳、そして更なる転生している記憶体の根本までの頭脳をコントロールしているのではないか。

それらの結果である私とは「根源プログラムからの思考照射」によって、スクリーンに映し出されているカラクリ(?)によって生じた「私」であり、畢竟それは私ではなく想念ではないか。

それは真の私という意識存在ではない。

であるので分離している自己として、認識している私も、認識されているこの私も、単なる思考だと思われざるを得ない。

そしてその根源から投影されたプログラムが偽の私を作り、肉体を投影し、「外部に起きていると思っている内部」に出来事を投影しているのではないだろうか

ラマナ・マハリシが言っている「心は脳にあって、身体や世界を投影している」とはこういうことではないか

こうであるので、

決して私が生まれたのでもなく、私が再誕したのでもなく、私が輪廻しているのでもない。

輪廻ということが、「無限空間の窓というスクリーン」に投影されているではないか。

それはとりもなおさず

観照者の鏡に繰り広げられている時空の物語にしか過ぎないのであり、真我に属する魂という鏡自体ではない。

観照者の窓というスクリーンに映し出されている時空の(次元の)映像にしか過ぎない。

それは真の私ではない、ましてそれは「窓という魂」自体ではない。

その映像の登場人物であるこの私とは決して私ではない。この私という映像は思考であるに過ぎず、(その観察者でもある)私とは、対象を持たない意識というものではない。観察者(観照者ではない)は思考であり、私ではない。

意識こそが私という観照者であると教えられている。
(上江洲義秀先生式に言えば熟睡中の状態が意識である普遍の私、ということだろうか。しかもこの意識は認識されることなく、日中の騒がしいマインドの中でもずっと続いているのだが、二元性ではないのでこの条件付けられている頭脳では認識できないのだ)

一般的には、生まれてきた「私」とは、死ぬ私であるけど、それは単に肉体と同一視している私を指しているに過ぎない。

肉体に意識の焦点を合わされて、肉体の頭脳が作りだした私が「生まれて→年を取って→死ぬ」と思うのであるのだが

では転生している私とはなにか

前世からの記憶を携えて、(現在はそれがブロックされて思い出せないけど)生き続けている「私」は肉体に転生する際には、

肉体に宿り、今後を過ごすことになる物質界での両親や肉体やプログラムを選んだということであるが、
その物質界での人生を選んだ「私」とは肉体を離れた後も生き続けていることであろう、
が、その私とは誰か、
魂なのか、それとも記憶を継続し、転生を続けている私とは(自分が行為していると錯覚し続けている)記憶体である「自我」であるのか。プログラム自体であるのか。


この生き続けている輪廻している私は邪悪である。

なぜなら世界を愛していると言ってはいるが、決して愛ではないからである。

何故、愛ではないのか、それは意識ではないからである。映像でしか過ぎない思考という分離であり、時空であるからだ、自他の分離であるからだ。

分離そのものが愛ではない。

愛とは意識そのものであり。

意識そのものがただ一つなるものであり愛である。

そしてその愛が私であると上江洲義秀先生は言われている。

意識とは、勿論「非対象」、「非思考」、「非個人」、「非人格」であり、それは全体であり、「ただひとつなるもの」であり、「輪廻をし続けているもの」をづっと観照し続けているといわれている観照者である、と思われる。

では、輪廻の中で生き続け、アメーバから始まって、微生物、鉱物、植物、動物、人間と進化しているのは一体誰か?

それは意識であろうか、それとも意識ではないもの、即ち「自分の事を意識であり、私と思い込んでいるもの」であろうか、それは記憶の継続体ではないのか。

輪廻して「自分の事を意識であり、私だと思い込んでいるもの」の特色とは、

自と他を分離する認識を持ち、時間の中で棲息し、個人と全体という分離感を持ち、主体と客体という認識から脱することが出来ず、常に自己感覚から抜け出せず、自分を特定の形姿や進化レベルと同一化し(形姿や進化レベルとは私でなくてプログラムであるに過ぎない)、他者を自己から分割し、世界や宇宙を内部ではなく外部に見て、自由意志はないのに、自由意志を持っていると信じ、行為をしていないにもかかわらず、自分が生きて行為していると思い込んでいるものである。

その輪廻しているものは
「自分の事を意識であり、私だと思い込んでいるもの」であり、意識のスクリーンに来ては流れ去るもの、やってきてはいなくなるもの、現れては消えるもの、起こってくるものであり、そして死滅するものである。それらの私とは形姿を持っていること、分離した個であり、思考であることであり、全体なる私ではない。


「自分の事を意識であり、私だと思い込んでいるもの」こそが、輪廻をしているものであり、私だと主張し続けているものである。行為していると信じるいわゆる行為者である。
しかし
それは常に意識ではないので、何かの形姿と同一化せざるを得ないことであろう。それは思考なので、対象を認識せざるを得ないのだ。
それは、あるときは肉体を纏い、あるときは霊体を纏い、あるときはもっと高次の形態を纏うことであろうけど、それは必ず常に分離していて「個別の私」と意識している。

真の私とは、個別の私では無く、常に全体である私である。それは普遍の私であり、全空間に充満している私である。と言われている。


「自分の事を意識であり、私だと思い込んでいるもの」はこの頭脳の中に投射されている現実存在(実存)であり、この現実に現在意識を持って、昼は起きて行動し、夜は夢見て、熟睡して、朝には目が醒めたのではないのに目が醒めたと思い込んで、生き続けているわたしである。

肉体に繋がれていると思っている思考であり、所謂、一般的に誤解されている言葉での「魂」である。

けれど、それは正しい意味でいうと、「魂」ではない。
魂とは時空を超越した無限の空間に開かれている窓そのものであり、真の私を映す鏡そのものであり、完全な静寂である湖面であって、鏡や窓である「魂」を覆っているプログラムという思考なのではない。

一般的にはそのプログラムのことを、魂と間違って呼称されているのだ。

私たちは通常、この無限の時空を超越した窓が魂であるにも関わらず、その窓を覆っているプログラムである思考のことを魂と呼んで、そのように誤解している。

その窓を覆っているものは「自分の事を意識であり、私だと思い込んでいるもの」であるプログラムであり、この「現在の私と思い込んでいるプログラム」の段階的展開状態である。

それは根源によって投影された「私だと思い込んでいるもの・想念プログラム」であり、根源がマトリックスの世界を上映するための手段であるところの思考である。

それは決して意識でもないし、私でもない。

私だと自らが思い込んでいるプログラムである思考が生み出した記憶体に過ぎない。これが自我だ。

だから、どうして個別の私が私であることができようか。

どうして善悪の基準を持って、私は良いことをしていると自覚する高慢なる自我が私でありえようか

良いことや悪いことという基準自体がマインドであり、更に行為していると思う高慢さが自我の恒常形態である

行為は自我がしているのはない、自我を生み出した根源であるプログラムが肉体を使って行為しているのだ

行為していると思うのは自我であり、行為は根源がプログラムを使って起こしているのだ。

だから良いことをしたり、悪いことをしたりする善悪の行為は行っておらず、それは起きている

そういうことであるので

悪の中に、既に反対物が含まれ、善の中に反対物の悪があるのでこのような比較や判断が成り立っているのだ。

そう言うことであるので、では肉体の死後生き続けて、更なる高次の身体や形姿と同一化して
自分は生き続けている、進歩している、進化している、そしていつかは探求し神と合一すると勝手に思い込んでいるこの私とは、このプログラムである思考であり、想念であるに過ぎない。

それは私でははい。私は既に成就しており、完全・完璧だと上江洲義秀先生は言われる。

では進化しようとするその私とは、魂の窓に貼り付いたプログラムが生み出した自我という思考であり、意識ではなく、従って成就することもない。「なるのではなく在るのだ」とクリシュナムルティーは言われている。

なろうとしている者は自分が行為できると錯覚している自我であり、なろうとしている者は私ではない

また〜になるものは私ではない。「私は在る」と言われている。

在ることは今であり、時間に属していないからである。と教えられているではないか。

輪廻転生して、生き続けている意識実体とは、所謂、間違って世間では魂と呼称され続けているものではあるけど、実はそれは魂ではなく、魂という「開かれている窓」に貼り付けられたプログラムであるものにすぎない。

私とはプログラムなのだ。結果なのだ。その結果が生み出したものが自我だ。

現在の意識と呼ばれているものは、実は単なる思考の中で、認識され、体験され、経験され、記憶されて生き続けているプログラムであり、プログラムが生み出した自我であり。それは共に私ではない。

私であるのなら思考によっては認識されることはないからである。

ラマナ・マハリシが何故、私とは無思考、無対象であると言ったのかを理解したい。

思考である偽の私によって認識されるものは偽の自己や他己・偽の世界であり、私ではない。

本当の私であるのなら、それは思考の死滅であることだろう、そのとき何処にも思考はないことであろう。

私であるのなら、そこには対象がないことだろう、意識であるからだ。

沈黙の静寂の中で対象なくして「在る」とき、そこにわたしが在ることだろうと言われている。

もし、いかなる聖らしく見える事であっても、そこに形姿や対象の認識があるとき、それは聖なるものではない。

見ているものと見られるものとの分離・対立・二元がある限りは、それは意識でもなく、従って私ではないことだろう。

私は意識である。私は思考ではない。私は無思考である。私は無対象である。と、ラマナ・マハリシ方が言われているのを理解したい。

現在の私とは、その私ではないもの、即ち「自分の事を意識であり、私だと思い込んでいるもの」であるプログラムが生み出した観念にすぎないのだ。

だからこそ、その私ではないものの最大の特徴である肉体との同一化や霊体との同一化や、輪廻している記憶体との同一化や、更に巧妙で高次な意識体との同一化をしているのだ。

それは私では無い、その輪廻転生を繰り返している実体は、私と言う観照者の窓にやってきて窓を覆い尽くしているプログラムである、そして自我とは根源から送られた「プログラムが引き起こした」観察するものである

思考は至高なる存在の道具であり、現象界を維持するための手段である、といわれている。

思考はプログラムであり、輪廻しているシステム自体であり

思考は分離するものであり

思考は個人を作り出すものであり

思考は主体と客体の分離であり

思考は時間であり、その認識形式であり

思考は見るものと見られるものの分離であり

思考は記憶であり、個別性であり

思考は認識であり、体験であり、経験である

思考は対象であり、絶対主体ではない

思考は「自分の事を主体であり、意識であり、私と思い込んでいるもの」であり

思考は私ではない


思考は存在ではない

思考は意識ではない

そして

最後に思考は愛ではない


最終的に本当の愛は至高なる存在であり

それは思考ではない、その愛とは本当のいまここの私である

それが意識であり、真実の愛であり、全体であり、ただ一つなるものである

と多くの覚者によって言われていることである










戻る