プログラムが反応している
反応に反応している、又は、反応に対して反応が起きている
「この私・自我」の現在考えていることとは、いくら高尚な考えでも単なる反応なのだ
それは「気づき・私」ではない、「気づき・私」とは反応ではないからだ
反応に、反応しているのが「この私・自我」である
「この私・自我」と言われている主体が、脳の反応に反応している記憶である
条件付けられている頭脳で受け取られた思考に対して、
その思考の記憶が反応しているのが個人の意識の中身である、
すなわち「自我・私」である
これが私(気づきではない私)という自己意識であり、動物も植物も鉱物も細胞もあらゆる物質が同じように
この思考の自己意識を持っていて「私・私のもの」と思っている
思考を生み出しているマインドの中は全てが分離した自己意識で有る
@ プログラムされているようにマインドが頭脳と肉体によって受信され
そして、その届いたマインドが「頭脳の条件付け」を通過して(頭脳は受信器・発信器である)
A 条件付けられた頭脳から発せられた反応に対してそのマインドの反応の記憶である「私という自己意識」
が反応している
これが私達の意識(実は記憶の反応)であり、私だと知覚し、認識している分離している自己意識である
その意識の特長の最大は、
過去現在未来の認識をすることであり、
自我意識を持つことであり
行為は自分がしていると思うことであり
自他を分離した知覚と感覚を持っていることだ
そして問題意識を持ち、良くなろうとすることである、他と競争して少しでも自分が人より良くなろうとして努力することだ
自分が他とは違った身体であり他と分離しているということを実感している意識だ
これに比して、
もしも、この私達の現在の意識が「気づき・私」であるなら過去現在未来という時間の認識はなくて、
今だけに生きるようになる
それともう一つ、この気づきの意識の特徴は
『「自我・私」の意識とは、実は意識と呼べるようなものではなくて、実体は記憶なので、常に古く、記憶から反応して生きてい
るのだ』と言うことを正見している意識でもあり
それを正見しているこの「気づき・私」の意識は常に新しく、常に新鮮で、問題というものはこの気づきには無く、あるがままが
あるがままにあり、起こっている映像には決して囚われていない、(起こっている映像とは勿論、自我であり、自己関心であり、
運命であり、出来事である)、この「気づき・私」の意識に於いては、心でありマインドである映像は何も起こっていない
(「気づき・私」とは映像ではなくスクリーンであるからだ)
そういうことであるので、この気づきではないこの「自我・私」の意識とは、
すべてが脳によって条件付けられている、脳の条件付けによる結果であるからだ
その脳がマインドという心の範疇の中でしか生存していない状態であり、その脳はマインドの一部である
(けれども脳の条件付けが解けて、高次の「気づき・私」を受信できるようになったときが悟りである)
それに比して、現在のパーソナリティーとは「気づき・私」と「自我・私」の中間存在であり
「気づき・私」が現象界に触れることによって生じていると思われる実体で
サイコノエティック体とかコーザル体とも言われており、現象界での経験を積んで「気づき・私」である永遠のパーソナリティーに
帰還されるべき実体であり、霊魂とも言われている
けれどもその中間存在であるサイコノエティック体とも言われている霊魂とは、自我ではなく、かといって観照者でもなく、
素質的に永遠のパーソナリティーに帰還出来る可能性のある存在で、エレブナでは「素質的可能性」と呼称されている
意識的実体である
この現在のパーソナリティーが自我の方を向くのか、観照者の方を向くのかによって、その質が決定される、マインドの中の
実体である
即ち、現在のパーソナリティーが思考と同一化してしまうのか、それとも無思考と非対象であり「世界は私である」という
「気づき・私」真の私に焦点を合わすのかその態度を決めなければならない
現在のパーソナリティーが真の私に向かって歩み始めるのが人生が作られた目的である
だから
この現在のパーソナリティーが「自我・私」意識に捉えられて思考しているときには、その現在のパーソナリティーは
「自我・私」となっており、「気づき・私」と繋がっていない
現在のパーソナリティーが脳に捉えられているこということは、
全てがマインドであり、その条件づけられている中で起きていることだけを覚知し、認識し、知覚し、そして意識していることだ
内も外も、マインド・心によって支配されている
これが「自我・私」の意識、自己意識である
「自我・私」は条件付けの結果である、最大の条件付けは頭脳である
頭脳は誕生時に根源によってDNAでプログラムされている
何を思うのか、いつ何が起こるのか、そして、
それに対してどのように行動するのかがプログラムされている(とラマナ・マハリシは言われる)
その頭脳の中に私達・現在のパーソナリティーは繋がれたのだ、自我と一緒に・・自我として・・
そして
「気づき・私」ではない「自我・私」が思うのである
自分の肉体だ、自分の思考だ、自分の欲望だと
そしてまたその中間の私であるサイコノエティック体という現在のパーソナリティーは
その「自我・私」と同一化してしまう、自分もそのように思うのだ
そして、そのように思ってしまうけれども、何一つ私ではなく、
何一つわたしのものではない
「自我・私」のものでもなく
「自我・私」と一体化している現在のパーソナリティーのものでもない
肉体も私のものではなく
感情も私のものではなく
思考も私のものではなく
欲望も私のものでもなく
それらを自分だと思っている私も私ではない
それらは起こっている
来ては去っていくものである
思考し、知覚し、体験し、願い、思う「自我・私」というものも私ではなくて脳の条件付けの結果であり
その脳の条件付けの結果である「自我・私」とに
現在のパーソナリティーが同一化しているのである
その同一化している者こそが
観照者から生じた、現在のパーソナリティー・霊魂という素質的可能性のある
サイコノエティック体である「現在の私」なのだ
この私こそ自我と一緒にされている現象界の中に生まれた仮の自己なのである
「気づき・私」である観照者から生まれた放蕩息子なのである
果たしてこの肉体は私の肉体だといえるであろうか?
果たしてこの思考は私の思考だと言えるであろうか?
果たしてこの行為は自分の行為だと言えるだろうか?
自分の行為、自分の思考、自分の欲望、自分の考えなどのどれをとっても
自分のものではなくてすべてはマインドのものであり
「自我・私」のものではなく
現在のパーソナリティーのものでもなく
「気づき・私」という観照者のものでもない
肉体も、出来事も、運命も、思考も、行為も、意志も、知覚も、体験もマインドがおこしていることだと言える、
そしてそのマインドは根源が起こしている映画なのだ
根源がマインドを通じてプログラムを起こしている、出来事も、それに対する思考も、行為も、複層している
自己達も・・
全ては私ではなく、聖なる根源からマインドとしてやってきて起きている
聖なる錯覚であり、聖なるマーヤなのだ
そして、それに反応しているのが、私だと名乗っている「自我・私」でありプログラムの結果であるものである
マインドが頭脳の条件付けを経て記憶となり、
その記憶の反応が「自我・私」であって
「自我・私」とは自由意志や自由である意識(即ち魂・観照者)ではなく
自由という感覚を伴った自由のない意識であり、自由という感覚をしているだけで
条件付けられている自由のない記憶である
この「自我・私」の意識とは条件付けられている思考の記憶の反応であり、
その条件付けられた反応が「自我・私」と言う自己意識であり、
自我という記憶が「私が」「私の」「私のもの」「私」という自己関心と自我意識を起こしているに過ぎないのである
通常は霊魂である現在のパーソナリティーは、「自我・私」とぴったりと重ね合わされてしまっているわけだ
そして自己意識として一括されている
この自己意識が肉体の死後、生存を希求し、輪廻を望んだとしても、それはその意識の実体が希求しているのではなくて
、その実体にその様に希求せしめている思考がその様に希求しており、その様であるからその様に思い、思わざるをえな
いのである。
それなのに、その「自我・私」がそのように思うように仕組まれてそのように希求してしまうのだ、「私は希求しているのだ」と・・
その様に希求しているのは「自我・私」本人ではなくて記憶が、そして記憶を作っている思考がそう願っているのであって、
その私、その個人ではない
輪廻しているのは、私と言う個人「自我・私」ではなく、個人の意識をそのようにあらしめている思考でありマインドであるも
のであり、より根源に近い現在のパーソナリティー・コーザル体である。
では輪廻している私とは、一体どの私であるのか?
A:今生の肉体精神機構の私でもなく、その肉体でもなく
この肉体精神機構にやってきているマインドや出来事という映像ではなく
またその肉体精神機構の条件付けの結果である思考や感情でもない
B:「自我・私」というその脳の結果の記憶でもなく
(その記憶が多くの人生を同時期に生きている過去現在未来の多くの自我である)
そして、その記憶の自我が生み出した想念形態(ワサナ)でもなく、
C: それは現在のパーソナリティーである
■ 正確には転生しているのは現在のパーソナリティーと言われる
サイコノエティック体が観照者に収納されるコーザル体である
(この観照者の投影が現在のパーソナリティーであり、素質的可能性のある自己であり
真我に帰還する運命を持った現在のパーソナリティーであり
エレメンタルの私・分身とは現在のパーソナリティーによって投射されている私である)
D:観照者・魂の私・永遠のパーソナリティー・全体としての私
(いまここあるがままであり、時間空間に縛られず、分離していない私、常に新しく記憶ではない私
マインドではない「気づき・私」)
E:真の私
(ソウル・セルフエピグノーシスと言われ「見るものは見られるものである」である 純粋の主体・絶対主体、クリシュナ
ムルティーなどによって言われている「私は世界であり世界は私だ」の私)
F:真我(サット・チット・アーナンダと言われる、神聖なる叡智、神聖なる愛、神聖なる実在である至高なる真我、
神聖なる三位一体)
この分類が正しいのかどうかは「自我・私」が「気づき・私」と繋がらない限り
正直の所、自分にも分からない
がしかし、この現在の意識されている自己とは明らかに「気づき・私」ではなく「自我・私」である
マインドに条件付けられている私であり、それゆえに私ではない私であり、マインドが作り上げた嘘の私なのである
私達は、その条件付けの結果の記憶を通常は自分自身と言っているけれども、それはマインドによって与えている条件付け
であり、私達自身である記憶が生み出した条件付けではない
あくまでその条件付けの結果が私達なのであって、私達という記憶の私がその条件付けをしたのではないからである
私という自己意識こそが、その条件付けの結果であり、その結果としての私であるのだ
悩み苦しむ私とは誰か?
それは「自我・私」である
「自我・私」がなぜに「自我・私」から逃げることが出来ようか?
自分自身が自分から逃れられないのに・・
「自我・私」は「自我・私」から逃避し、自分を見ないように条件付けられているのだ
ではその「自我・私」を味わい、その「自我・私」と一つであることは可能であるのか?
その悩み苦しみから解放されるために、その自分を見たり観察したり、同一化しようとしたり、逃避しようとしたり、良くするため
に理解しようとするのではなくて、
その悩み苦しむ『「自我・私」がその自我・私』である私自身として、共に生き、共に悩み共に苦しむことが
可能であるのか
その悩み苦しむ人とは、「自我・私」自身であるのだ
私が、その悩み苦しむ人である、ならば、何故、その私から逃げたり、理解することによって、その自己の消滅を願ったりして、
共に悩み苦しむことをしないのであろうか
「自我・私」からの超越や、「自我・私」からの自由ではなくて、反応であり条件付けられていることをそのまま受容することである
なぜならば、超越しようとしているものこそが、「自我・私」であるからである
だから、この苦しみ悩む「自我・私」を抱きしめることが肝要と言える
この苦しむ「自我・私」が苦しみ悩む「自我・私」を抱きしめるのである
この記憶であり、記憶の反応、それもかなり重度に条件付けられている思考の、頭脳の反応の私、条件付けの結果である私、
自己意識を受けいれ、この私を受容して抱きしめることこそが、それ自身の正しい道のように思われる
この抱きしめると言うことが「自我・私」である記憶を記憶として正見し、直視すると言うことである
この苦しみ悩みは思考であり、思考それ自体の姿なのである・・
この自我という記憶の結果である者のすべてを受け入れ、共に一緒に苦しみ、悲しみ、悩み、細かいところまで味わい尽くすこと・・・・
これが現在のパーソナリティーである中間の私に求められていることである
現在のパーソナリティーの私が「自我・私」を受け入れることである
これがあるがままをあるがままに見ることではないだろうか
あるがままをあるがままに見るとは、自己の観念で作り上げた観念の想像の私を、そして条件付けられている「自我・私」である
記憶を、そしてその記憶を生み出している思考の条件付けを、直に正見する事である
これは中間の現在のパーソナリティーが「気づき・私」と繋がっていなければならない
正見することとは「自我・私」がすることではなくて、「気づき・私」によって在ること、起こる事だからだ
現在のパーソナリティーは「気づき・私」に繋がろうとしていなければならない
自分自身である「自我・私」から何とか逃げようとし、なんとか至ろう、何かに成ろう、現実を良くしよう、幸せになろう、
満足を得よう、知覚を拡大し、この錯覚から解放されようと、藻掻き、求めているこの反応が
「自我・私」自身の反応であり、そうすることが条件付けられているのである、だからそのようにしてしまうのである
そこには自由はない
これが脳の、思考の条件付けの働きである
これこそが現実の条件付けられている私の姿であり、記憶の反応としての私であり
即ち「自我・私」の動きである
これが全人類共通のすべて同じように同じく条件付けられている記憶の反応である「自我・私」であり
これが私と言っている贋の自己意識であり、マインドそのものであるものだ
自分の運命や自分の出来事や、自分の才能や容姿や環境や人間関係や経済状況
富めることや貧しいことも、自分のゆえに自分の責任で起きているとおもわれること事でも
実はそれは決してわたしが起こしていることでもない
それはただ起きているようにそれらは起こっている、映画だと
それらは私ゆえにではなくて、私とは関わらずに起きているのである、だから映画だといわれている
その外部と同じように
内部に於いても思考や感情や欲望も行為と同じように私ゆえにではなくて、私にもかかわらずに起こっている、だから映画だ
なぜなら「私という条件付け」をなした同じ原因が、同じように外部と内部を起こしているからである
私(「自我・私」)も、認識と知覚と経験も起こっている結果であり
起こっていることに対して一喜一憂するように条件付けられている
その様に自己関心を抱き、その自己関心から逃げることの出来ないようにされ
その自己関心の主体と対象に注目し、縛られ、価値を於くように条件付けられており
条件付けられているようにしか行えず、考えられず、体験し、知覚できない
条件付けられている事しか、欲せず、願わず、求めないように仕組まれ、プログラムされているからである
畢竟、「自我・私」とはその条件付けの結果であり、その条件付けの反応であり、その反応に対する反応でしかない
「自我・私」とは結果であり、反応の反応でしかないのである
「自我・私」が願い、思い、考え、信じ、行うこと、信じること、求めること、欲望し、逃避し、嫌い、または好むことのすべてが
条件付けの反応であるのである
お金を得ること、安定する事、安心すること、良くなること、進歩すること、成就すること、立派になること
有名になること、認められること、永遠であること、永続すること、ずっと生き続けること
その様に願い思うようにセットされて、
それしか出来ないようにプログラムされ、条件付けられている
それが「自我・私」である
それが上映されている映画の物語だ
それが私達という頭脳の条件付けである「自我・私」が出演している映画である
その映画に巻き込まれているのが現在のパーソナリティーであり、
それを慈しみを持って観照しているのが観照者であり、魂である永遠のパーソナリティーである