死ななければ、生きることは出来ない
グルジェフはそう言った
死ななければ、生きることは出来ないと
いま私達は生きていない
生きていると思っているだけだと思う
頭脳の条件付けと、マインドの流入、そしてそれらを統括する玉響の設計図に従って
生み出された、幻想・概念の自分が(ファンタムセルフ)「生きている」、とそうおもっているのだ。
その幻想の自分は肉体と同一化し、死後も生き残るが、転生は出来ない。
ワサナになるだけだと思う
そして、転生してきた、その自分を作り出した観照者の座にふたたび、引き寄せられるのだとおもう。
その幻想の概念で作り出された自分が、悟ろうとしたり、探求したり、恋したり、愛していると、思っているだけではないだろうか。
視座を変えてみれば、全ては
その幻想の自分に起こっているだけだと思う
その幻想の実体は
その幻想の自分に起こった諸々の、記憶、感覚、認識、知覚そして思考、概念、想念、感情、出来事、哲学、思想、環境を
自分のものと錯覚したのだ。自己同一化したのだ。
それには記憶が一番作用していると思う
記憶が全てのそれらのマインドの実体なのだと思う
であるからして、実際はいま、これを書いて、中と外を意識しているこの久保栄治という個別的人格は
その記憶が作り出した概念だと思う
この個人は実体のない想念形態の凝縮物である
これこそ久保栄治の実体なのだ。
そして、この概念が生み出したこれが
この今の意識の座である所の観照者を占有してしまったのだと思う
真我への突破口であり、真我への扉であり、ドアーである観照者。
意識の座
意識の座である「観照者」をこの「概念・私」が被ってしまったのだと思う
真我の入口のドアーである、観照者の意識の座を被ってしまったのだのではないか
、
だから
この私は私ではない
しかしこの私は、自分では払いのけることは出来ない。
この観照者という「真我へのドアー」の上に被っているものを払いのけるには
真我の力が必要だとおもう。
だからグルジェフは
「生きるためには死ななくてはならない」
「死ぬためには目覚めなくてはいけない」と言ったのだと思う
真我からの覚醒が来たる必要がある
真我からのディクシャが必要である
内側である真我からの目覚が必要だと思う。
内なる真我の力が必要なのだ。
そのためには
真我を求め続ける必要がある。
真我のドアーをたたき続ける必要がある。
真我との一体を心の底から祈る必要がある。
真我を内側に焦点を合わせる必要がある。
偽我に焦点を合わしてはならない。
いずれにそよ
それは恩寵であって、招き寄せることは出来ない。
与えられるものであるからだ、とそう思う。
訪れてくるものだと、そう思う。
偽我はその真我によってのみ駆逐できると思う
偽我はその真我によってのみ死ぬことが出来ると思う
概念である偽我は、概念では死ぬ事は出来ない
偽我は偽我によっては死ねないのだ
それは起こるのだとおもう
それは恩寵による。
上江洲義秀先生に流れている真我の力は絶大だ。
彼からのディクシャは大きな恩寵なのだ。