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正しき行い、正しき思い・八正道


正しき行い、正しき思い、八正道と言うと「おやっ」と拒絶反応を起こす人はいるのではないか

「行うことも、思う事もそれは映像であり単に起きていること」という覚者方の絶対的なる見地を自己のマインドのレベルで

勝手に我田引水して解釈し(この現在の自分はマインドという自我そのものの状態であるにも関わらず)

マインドを超越している「非思考・非対象」という気づきから見ている真実を、思考でもって勝手にこうだろうかと推測し、

思考が理解できることと(言葉によって理解できることだと)間違って解釈してしまい

マインドという「結果である記憶」でしかないこの思考が、思考を超越していることを思考している、という過ちを犯している

(それは神とか、愛とかいわれていることは言葉によっては全く理解できる次元ではないのに言葉にしているに似ている)



思考を超えた、未知なる意識、未知なる私が述べた真実の言葉を

思考のレベルで解釈し、間違った観念で「行為も、行為者もただ起きているのだ」ということを誤解してしまっているからだ


これは思考を超越している非思考の見地から見た場合のことであり、自我の見地からのことではない

この状態の聖者の真実の言葉・意識の次元は「マインドであり自我であるこの記憶」では推し量ることも想像すらも出来ない

この「思考も思考者もただ起きている」という絶対の真実は思考では、誤解しかできない


要するに、この思考の記憶(自我)では、この「思考も思考者も起きている」という事実は経験することも認識することも

理解することも出来ないと言うことである、記憶やマインドでは触れることが出来ないと言うことである


聖なる言葉と真実はこの「思考の記憶という意識状態である私達」にとっては、無思考と非対象という私が誕生していない

限りは、知性や理性や思考では一切理解することが出来ないと言うことである


現在の人類は眠ったまま生まれ、眠ったまま死んで、眠りから覚めないでまた転生する

朝、ベットから目が醒めた私は「目が醒めた」のではなくて、目を開けることなく眠ったまま起きてしまったのであると

言われている

この現在の私の意識とは思考でありマインドであり、記憶の反応であり「本当の意識」ではない、

眠りが続いているだけだ

この眠りこけている意識状態こそが自他を分離し、時間を認識し、内界と外界が分離していると思っている意識だ

「思考と言うわたし・自我」の意識である



そういうことであるので、このマインドに於ける次元では、マインドが正しく思う、正しく行う事が非常に大切である

私達・自我とは思考そのものであり思考でしかないので、この思考のありようが非常に重要となるのである

実際の私達とは「行為していると思っている」自我そのものであり、「時間の記憶である」以上は常に思考と行為の主体とは

分離独立した「わたし」が為していると感じているマインドに他ならない

「見るものは見られるものである」を私達が口にした塗炭に、それは虚偽になる、それは「非思考、非対象の私」が

発している究極の真実の言葉であるからである



このマインドがこの私・主体である以上は(気づきが誕生していない限りは)

いくら「思考と思考者は同一だ」と言い、「行為は起きている事である」と自我が言っても

それは嘘を言っていることになる、究極の真実であることも、虚偽であるマインドが話せば、嘘となってしまう

マインドである自我がまだ生きている以上は、そういう高次の認識実感や理解は起きていないのだし、真の私は

まだ誕生していないからである


と言うことは

口先で「行為者は行為されるもの」「思考者は思考である」「全ては起きている」と言ったところで、

言っている私が自我である以上はその聖なる真実の言葉に泥を塗っていることになる、汚していることとなるのだ

心が未だ残っている以上は嘘をついている状態に嵌っていることとなってしまうのである



だから正直になる必要が有る、


あるがままで何処にも行ってはいけない、今此処に留まるのだと言われている


時間に縛られ爆走しているマインドをマインドで持って静かに見つめるのだ



「思い」と言うことに関しても、

自分が思っていると実感している以上は、この思っている主体は自我であり、マインドであるのだ

マインドがそう思っているのだ、マインドだからそう思うのであり、真の私であるならそこには思考もなくマインドも進歩も

退歩もなく、過去も現在も未来も、距離もないと言われている、そこには自己もなく他者もなく、自他の分離はなく、私も無く

見る者もなく見られるものもないことであろう

けれども、この想い行っていると実感しているマインドの私・自我がまだ生きている限りは

行うことも、思う事も全てが自分が主体であるとの感覚・知覚から抜け出せないでいる、

ということはカルマから、輪廻から抜け出せないのだと



ならば、

このマインドの次元から一歩も動くことが出来ない「時間に支配されている」状況下にあっては

自我であるマインドが、マインドでもって

正しく思う事

正しく行うこととは

非常に重要なることではないか、

仏陀の説かれた八正道も大切なのである

正しく思う事とは、

ではなにか

「このマインドである分離した私が思う事、(この虚偽である時間が生み出している)この私という主体が思う事の全てが

自他の分離と、〜になると云う「時間」の条件付けに汚染され、如何様に転生を繰り返しても、真の私ではないので

目覚めることのない記憶の反応でしかない」

ということを正しく思う事ではないか、常時見極めることではないか

心底からこのことをじっくりと自我が見極めることではなかろうか

ハッキリと「虚偽を虚偽と見ること」とは思考で以て正しく「私は見ていない、目が醒めていないから」と見ることである、

「私は記憶にしか過ぎず、その条件付けられた記憶が反応して転生しているのがこの私だ」と

この分離し、恐怖の二元の私、「輪廻している記憶の実体の私」が死滅しない限りは「真実の生」はあり得ないと

この正思・正観こそがマインドである私に求めれる「正しいマインドの思う事」である

これがマインドが正しく思う事だと思うのである



また同じように

正しく行うこととは、

このマインドが行うこととは全てが虚偽であり、全てが愛ではないものであり、それは盲目であり、

目が開いておらず、愛を行うことも、正しく行うことも出来ないので、

この私・自我の行為の全てを「聖なる根源が行う行為」に全託し、

非難したり、判断したり、善悪を言ったり、選り好みをしたり、逃避することを中止して

「御心の天になるが如く地にも成らせ給え」と、真実の行為者である根源の御心で有るダルマに行為を全託することが

正しく行うということなのではないか


この行為ということにマインドを挟ませたり、思考が入って色々と非難や解釈を加えることなく

聖なる根源の行う、この現象界のダルマの解現に「自我の行為を一切挟むことなく」身を任すことが正しい行いである

のではないだろうか

行為は根源が起こしている、なるようにしかならないし、なるように必ずなる、良いことも悪いこともなくただ起きている

全ての行為は根源が為しており、私達の諸身体はその道具であると

この有機体の行為を根源が起こしている行為として礼拝することが私達の正しい行いではないか

肉体や幽体や霊体である九つの諸体は私達の持ち物ではない、ましてこの自我も時間であるマインドも私達の持ち物ではない

根源が起こしている媒体であり、私達は存在していないと

真の私は今此処に時間と空間を超え、二元分離を超え、完全なる全体として既に在ると聖者は言われる


正しい行い、正しい想いは大切である

私達は「このあるがまま」からしか歩むことが出来ない、

このあるがままの「眠っている意識状態という現在の意識」状態こそが

「条件付けられている思考」の記憶の反応でしかないこの私・自我がいる場所である

此処からしかスタートできない、あるがままからしか歩むことができないのではないか


だから聖人は八正道を説かれて、マインドが正しく行い、正しく思う事を求めておられるのである

それが私達、目が醒めていない盲人であるものの勤めではないだろうか

と最近思うのである